大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

熊本地方裁判所 昭和54年(ワ)499号 判決

一 原告ら

原告

仲村妙子

外二三名

原告ら訴訟代理人

建部明

原告大矢繁義を除くその余の原告ら訴訟代理人

(但し、被告は熊本県のみ)

後藤孝典

山口紀洋

二 被告ら

被告

右代表者法務大臣

秦野章

被告

熊本県

右代表者県知事

細川護

被告ら指定代理人

上野至

外一六名

被告国指定代理人

川本善望

外一名

主文

1  被告らは各自、別紙請求認容金額一覧表記載の原告らに対し、これに対応する同表認容金額欄記載の各金員及びこれに対する昭和五七年九月三〇日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

3  訴訟費用はこれを三分し、その二を原告らの、その余を被告らの各負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  原告ら

1被告らは各自、別紙請求金額一覧表記載の原告らに対し、これに対応する同表請求金額欄記載の金員及びこれに対する昭和五七年九月三〇日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2訴訟費用は被告らの負担とする。

3第1項につき仮執行宣言

二  被告ら

1原告らの請求をいずれも棄却する。

2訴訟費用は原告らの負担とする。

3仮執行免脱宣言

第二  当事者の主張

一  請求原因

1原告らは、それぞれ別紙請求金額一覧表(以下、単に「一覧表」という。)申請年月日欄記載の年月日に熊本県知事(以下、単に「知事」という。)に対して公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法(昭和四四年法律九〇号、以下「救済法」という。)三条一項又は公害健康被害補償法(昭和四八年法律一一一号、以下「補償法」という。)四条二項に基づき水俣病と認定すべき旨の申請をした。

2知事は、救済法及び補償法に基づき、原告らの右各申請に対し、認定業務に要する相当な期間内に、認定又は棄却の処分をすべき義務を負つているにも拘らず、原告仲村に対し昭和五四年五月二六日、同長浜に対し同年八月一日、同坂本吉高に対し同年四月二七日、同岩内に対し同五五年五月二日、同野崎に対し同五七年九月二日にそれぞれ認定の、同松崎に対し同五四年二月二二日、同柳野に対し同年八月一日、同久木田に対し同五五年一月二五日、同福山ツルエ、同福山貞行に対しいずれも同年六月四日、同田上に対し同年九月五日、同川野に対し同五四年二月一日、同坂本輝喜に対し同年八月一日、同川本に対し同五五年一月二五日、同楠本に対し同年九月五日にそれぞれ棄却の、各処分を行うまで何らの処分を行わず、その余の原告らに対しては本件口頭弁論終結時である昭和五七年九月二九日に至るも何ら認定又は棄却の処分もしていない(以下、認定又は棄却処分を受けた原告らを「既処分原告ら」、その余の原告らを「未処分原告ら」という。)。

3前記一覧表表示原告番号1、2、4ないし10、12ないし15の各原告ら(以下、「不作為判決原告ら」ともいう。)は熊本地方裁判所(以下、単に「熊本地裁」という。)に対し、右原告らが救済法に基づき行つた水俣病認定申請につき、知事が何らの処分をしないのは違法であるとの不作為違法の確認を求める訴えを提起した(熊本地裁昭和四九年(行ウ)第六号、同五〇年(行ウ)第六号事件として係属)ところ、同裁判所は昭和五一年一二月一五日知事の右不作為は違法である旨の判決(以下、「不作為判決」という。)を下し、右判決は同月三〇日に確定した。

したがって、不作為判決の既判力からすれば、本件原告らが前記のとおり一定期間認定又は棄却の処分もされず、あるいは現在に至るも処分されないでいることは、知事の故意又は過失による違法行為というべきである。

仮に、不作為判決の既判力が、不作為判決原告らを除くその余の原告らに及ばないとしても、知事が認定申請に対し何らの処分をしないというこれら原告に対する不作為の状態は、不作為判決原告らと同様であるから、知事の右原告らに対する不作為は故意又は過失による違法行為ということができる。

4  知事の行う水俣病認定業務は国の機関委任事務であるから、被告国は国家賠償法(以下、「国賠法」と略称する。)三条の「選任若しくは監督」に当る者として、被告熊本県(以下、「被告県」という。)は同条の費用負担者として、それぞれ原告らの蒙つた損害を賠償すべき義務がある。

5原告らは、知事の前記水俣病認定業務の遅延により、水俣病認定申請者という不安定な地位に置かれ続け、水俣病に対する適切かつ十分な治療も受けられず、認定者との社会的経済的差別を受け、果ては故なき迫害すら受けており、日々不安と焦燥感のなかに悲惨な生活を強いられている。このような原告らの精神的苦痛を金銭で慰藉するならば、原告一人につき一か月当り金四万円は下らない。

そこで、既処分原告らは各申請の日の翌月から処分の日の前月まで、未処分原告らは各申請の日の翌月から本件口頭弁論終結の日の前月まで、一覧表遅滞延べ月数欄記載の各月数につき、一か月金四万円の割合による慰藉料を請求する。

6ところで原告らは、本件訴訟の遂行を弁護士建部明に依頼し、その報酬としてそれぞれ認容額の一割に相当する金員の支払を約した。

7仮に原告らの前記主張が認められないとすれば、原告番号1、2、5、18の各原告は次のとおり主張する。

(一) 水俣病患者東京本社交渉団は昭和四八年七月九日チッソ株式会社(以下、単に「チッソ」という。)との間に補償協定を成立させた。

(二) 右協定によれば、チッソは患者本人に対し、慰藉料としてAランク一八〇〇万円からCランク一六〇〇万円までの金員を支払うとともに、終身特別調整手当として、いわゆる年金形式により月額Aランク六万円からCランク二万円までの金員を毎月支払うこと、右手当金支払の起点は、昭和四六年九月から同四八年四月二七日までに認定を受けた患者については昭和四八年四月二七日、翌二八日以降に認定された患者については各認定の日とする、右締結日以降に認定された患者についても、同人の希望があれば、右協定の適用を受けることができる、右手当の額は諸物価の変動に応じて改定することができる、旨定められたところ、右改定約定に基づき、右手当額は別紙終身特別調整手当額推移表記載のとおり改定された。

(三) 右原告らは、前記2のとおりそれぞれ知事から水俣病との認定を受けた(以下、右原告らを「認定原告ら」ともいう。)ので、原告仲村は昭和五四年七月二六日、同長浜は同年八月八日、同坂本吉高は同年五月四日、同岩内は同五五年五月九日、それぞれチッソとの間に前記補償協定の適用を受けることを承認した。その結果、右原告らはチッソから右各認定の日に遡つてランク別に従いそれぞれ所定の終身特別調整手当の支払を受けることになつた。

(四) したがつて、知事が、右原告らの認定申請に対し、前段記載のごとき不作為による違法状態を作出することなく、速かに認定処分をしておれば、右原告らは別紙逸失終身特別調整手当金記載の各金員の支払をそれぞれ受けられたはずである。

(五) 知事は、前記補償協定調印に立会人として署名し、患者にとつては、右補償の内容が救済法、補償法所定の救済措置ないし補償よりも有利であることを熟知しており、認定患者の殆どすべては右補償協定の適用を受けることになること、したがつて、申請患者に対する認定業務が遅延すれば、その間患者は右手当を受けられなくなることを知つていたのに、前記のとおり認定原告らに対し未認定という不作為による違法状態を作出し、よつて右原告らに対し、右期間中に支払を受け得べき手当金相当の損害を与えた。

(六) そこで、右原告らは右各損害を前記各慰藉料額の限度において、予備的に請求する。

8よつて、原告らは、国賠法一条一項に基づき、被告らに対し各自、一覧表請求金額欄記載の各金員及びこれに対する本件口頭弁論終結の日の翌日である昭和五七年九月三〇日から支払ずみまでいずれも民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1第1、2項は認める。但し、原告野崎の申請年月日は昭和四八年六月一一日である。

2第3項は、第一段は認めるが、第二、三段は争う。

3第4項は、知事の行う水俣病認定業務が被告国の機関委任事務であること、被告県が国賠法三条の費用負担者であることは認めるが、その余は争う。

4第5項は争う。

5第6項は、原告らが本件訴訟の遂行を弁護士建部明に委任したことは認めるが、その余は知らない。

6第7項について

(一) (一)ないし(三)は認める。

(二) (四)は争う。

(三) (五)は、知事が補償協定調印に立会人として署名したことは認めるが、その余は争う。

(四) (六)は争う。

三  被告らの主張

1  不作為判決の被告県に対する非拘束性

原告らは、不作為判決を根拠にして、被告県に対し国賠法一条一項に基づく損害賠償請求をするものであるが、不作為判決において知事が行うこととされていた水俣病の認定業務は、被告国の機関委任事務として国の機関としてこれを実施するものであるから、被告県が知事の右業務上の違法行為によつて国賠法上責任を負うとしても、それは同法三条の費用負担者としての責任以外にあり得ないところ、費用負担者が国の機関委任事務にかかる不作為判決の既判力を受けるいわれはない。

2  知事の不作為に対する国賠法上の違法及び故意、過失の不存在

(一)違法性について

行政事件訴訟法(以下、「行訴法」と略称する。)三条五項にいう「違法」は、国賠法一条一項にいう「違法」とは異なるものであり、したがつて不作為判決の効力は、本訴にまで及ぶものではない。

(1) 行政事件訴訟は、行訴法三条二項ないし四項にみられるとおり、処分の存在を前提としてその適否を事後的に審査することを原則としているものである。しかしながら、行政庁が処分をしない場合にはその適否の審査ができないこととなるため、同条五項により、特に不作為の違法確認の訴えの訴訟類型を認めたものであり、判決により行政庁の不作為が違法であることが確認されたときには、行政庁になんらかの処分をしなければならないという拘束力が生ずるのであるが、それ以上に何らの効果をも生ずるものではない。したがつて、不作為判決のように、知事が処分をし得たか否か、処分をしなかつたことに怠慢があつたか否かという主観的事情を捨象して、申請者の地位の不安定を解消することのみを目的として(知事に処分をなすべき拘束力を生じさせることを目的として)、現在の不作為状態が違法となるとする理論構成も或いは可能かも知れない。

しかしながら、国賠法は、損害の公平な分担をその制度の趣旨とするため、国賠法上の違法性の判断においては、単に客観的な不作為の継続した期間のみならず、後記3、4で述べるように、知事が処分をなし得たのかどうか、処分をなさなかつたことに怠慢があつたのかどうかという公務員の主観的事情の判断を欠かすことはできず、更には、被侵害法益の軽重(単なる精神的不安の侵害か、生命身体等に対する侵害があるのか)、被害者側の事情(後記3の(五)の(2)の検診拒否等)をも考慮に入れたうえで違法性の判断をしなければならないのである。

したがつて、右の意味において国賠法一条一項の「違法」が行訴法三条五項の「違法」より狭いこと、換言すれば不作為判決で違法とされても国家賠償訴訟で違法とされないことも当然ありうるというべきである。

(2) 仮に百歩譲つて不作為判決の既判力が本訴に及ぶとしても、それは当然のことではあるが、不作為判決原告らについてのみであり、その余の原告らについては独自に国賠法一条一項の「違法」の有無を判断しなければならず、その場合においては前記主観的事情や被侵害法益の軽重、被害者側の事情等を捨象した判断をなすことは許されないのである。

(3) ところで、行訴法三条五項にいう「相当の期間」の判断に当つては、当該処分、裁決の性質、内容に応じ合理的に判断されるべきであつて、画一的、一義的に決すべきものではなく、結局は裁判所が具体的事実について個々的に慎重に判断するほかはないものであるところ、後記3、4で述べる諸事情に鑑みれば、本件水俣病認定申請に対する認定又は棄却処分について、処分までに要する期間を特定することは不必要であるばかりでなく、非常に困難ないし事実上不可能であるというべきであるが、しいていえば、原告らのうち、既処分原告らについては処分時において相当期間は経過していなかつたし、未処分原告らについては本件口頭弁論終結時において相当期間が経過していないというべきである。

以上のとおり、知事には国賠法一条一項にいう「違法」はないのである。

(二)有責性について

仮に、原告らの一部につき不作為判決の既判力が及び、又は知事の認定業務の遅延をとらえて国賠法上も違法があると評価されるとしても、後記3、4で述べる諸事情を勘案すれば、知事には同法一条一項の故意、過失はなく、また右認定業務遅延という結果を回避すべき可能性はなく、したがつて、被告らには責任はないというべきである。

3  早急に認定、棄却処分をし得ない事情

(一)医学的判断の困難性

(1) 水俣病の認定に関する処分は、救済法三条一項又は補償法四条二項により、認定を受けようとする者の申請に基づき、公害健康被害認定審査会の意見を聞いたうえで決定する必要があるが、知事は、従来、熊本県公害被害者認定審査会又は熊本県公害健康被害認定審査会(以下「審査会」と総称する。)の意見をきいてこれを行つている。

(2) ところで、熊本県における水俣病認定申請から処分に至るまでの手続は次のとおりである。

① 認定申請書が熊本県公害部公害保健課(以下「公害保険課」という。)に提出されると、その記載及び診断書等の添付書類について形式審査のうえ、適法であれば受理するとともに、申請者に対し受理通知を行う。

② 次に、申請者に対し所要の医学的検査等を行う。すなわち、公害保健課は、関係医師等と打合せのうえ、検診計画をたて、右計画に基づき熊本県水俣病検診センター(昭和五一年五月一日以前は国民健康保険水俣市立病院健診センター、以下「検診センター」という。)において、熊本県職員による疫学調査(病歴、職歴、生活歴、魚介類の入手方法及び摂取歴、家族の状況等についての調査、原則として個別訪問して調査する。)及び予備的検査として視力検査(裸眼視力及び必要に応じて矯正視力の検査)、視野測定(ゴールドマン量的視野計を用いて求心性視野狭窄及び沈下の有無を調べる検査)、視票追跡眼球運動検査(眼電位図により眼球運動の障害を調べる検査)、純音及び語音聴力検査(自記オージオメータ等を用いて難聴の鑑別を行う検査)、視運動性眼振検査(回転ドラムを用いて解発される眼振の異常により平衡機能障害を調べる検査)等を行う。

③ これらの疫学調査及び予備的検査の後、感覚障害、小脳性運動失調、平衡機能障害、構音障害、振戦、けいれん、筋力低下、精神症状、視野狭窄(及び沈下)、眼球運動異常、中枢性聴力障害等、また胎児性の場合には、知能発育遅延、言語発育障害、運動機能の発育遅延、共同運動障害等の脳性小児麻痺様の症候があるか否か、また、これらの症候が有機水銀の影響によるものであるか否か、或いは他の疾患との関連はどうかなどを調べるために神経内科、神経精神科、眼科、耳鼻咽喉科及び必要に応じて小児科等の専門医師による検診(神経精神科の検診は、認定申請者の要望等過去の経緯に基づき、精神症状に限らず、神経症状の分野の検診も行つている。つまり、神経内科と神経精神科の検診はそれぞれ重複し、ほぼ同じような検診となつている。)を行うほか、血圧測定、尿の一般検査、梅毒血清学的検査、頸部の単純、断層及び五〇歳以上では腰部の単純X線検査を行う。また医師の指示により、必要に応じて各種血液検査、脳波検査、筋電図検査、末梢神経伝導速度検査、四肢の骨、関節、頭蓋等のX線検査、末梢神経生検等を行う。

④ 検診センターに来所して検査を受けることのできない重症者、高齢者等に対しては、医師が申請者宅に出向いて検査を行うこととしている。また、申請者が死亡した場合においては、遺族の意向により解剖のうえ病理学的検査を行う。

⑤ 以上の検査終了後、各科医師において、これらの検査資料に基づき審査資料を作成、整理し、公害保健課に提出する。

そこで、知事は、これらの資料の整備された申請者について当該資料を添付して審査会に諮問し、審査会の審査、答申を経て、その意見に基づき認定に関する処分を行うのである。

因みに審査会における審査方法は、申請者各派との合意に基づき、審査資料の整つた者の中から、おおむね申請番号順に新規の者四割、審査に付されたが答申を保留された後再検診の終了した者を終了順に四割、新規の者で重症等により繰り上げ処理を要する者二割の各割合で順次選んで行つている。

以上のとおり、水俣病の審査にあたつては、事前に複雑かつ広範な医学的検査・検診を行つているが、これは、水俣病の個々の症候が他の疾患でもしばしばみられること、最近の水俣病の殆どが昭和三〇年代初めにみられた典型的有機水銀中毒症としてのハンター・ラッセル症候群を示さず、非典型的、不全型の症候群を示していることなどからやむを得ない措置なのである。

(3) このように、水俣病であるかどうかの判断は、審査会における審査の段階において行われるのであるが、先に述べたように、近時、認定される者の大半は、水俣病としては軽症であり、その示す水俣病の症候は、有機水銀中毒症として非典型的であつて、非常に判断困難であるうえに、加齢現象或いは合併症のために判断しにくいものが多く、更に鑑別に重点をおいた再検診或いは新たに精密検診を必要とする場合がある。また、一応水俣病でないと考えられるものでも水俣病の疑いを全く捨てきれない場合は、一定期間の経過をみて再検診を行うこととするなど水俣病患者の洩れがないように慎重な審査を行うことを旨としている。その他、症候の変動が大きいために判断困難な事例、運動機能の検査所見では異常であるにも拘わらず日常的動作において正常であるなど神経学的な整合性に欠ける事例或いは知能障害、高齢等のために所見を十分にとることが不可能な事例もある。このような事情により答申保留になるものが少なからずあり、処分を早急に行い得ない大きな理由となつている。

(二)申請者数の激増

(1) 現在までの申請及び処分状況

昭和四四年に救済法が制定されてから、昭和五七年八月五日現在における申請及び処分状況は別紙水俣病認定申請及び処分状況表記載のとおりであり、右状況表からもわかるように昭和四六年以降、特に同四八年以降申請者が急増したため、これが処理能力の限界を超え、早急に認定、棄却処分を行い得ない原因の一つとなつている。

(2) 再申請とその波及効果

水俣病認定申請に対して、知事が審査会の意見をきいたうえ、水俣病ではないと判断して棄却処分を行つた場合、当該申請人は、当該処分について異議申立て(補償法関係)、或いは審査請求(救済法、補償法関係)をすることができるが、同時に新たな申請(以下これを「再申請という。)を行うことができる仕組みとなつている。

認定申請に係る処分が進むにつれて、これら再申請者が未処分者総数の中に占める比率も漸次増大してきている。ちなみに近年の状況をみると、前記状況表記載のとおり昭和五二年の総申請者数(一三七八人)に占める再申請者数は4.6パーセント(以下、「%」と表示する。)(六三人)であつたが、五三年には一〇一七人中の20.2%(二〇六人)、五四年には七八〇人中の45.9%(三五八人)、五五年には六四八人中の68.7%(四四五人)、五六年は四三三人中の67.4%(二九二人)となつている。

これら再申請者に対する申請から処分に至るまでの手続は、初めての申請者と何ら変わるところはなく、したがつて、検診も初めての申請者と同様に順番になされるのであり、一面からみれば再申請者は初めての申請者の迅速な検診、審査にとつての障害となつていることは否定できない。

そして、かかる再申請が頻繁になされる状況にかんがみれば、処分者を増加させたとしても、認定処分者と少数の再申請をしない者だけが減少するのみであり、未処分者の滞留は避けられない状況にあるといつても過言ではない。

(三)検診能力の限界

(1) 被告らは、常々検診医確保の努力を行つており、現在の検診は熊本大学(以下、単に「熊大」ともいう。)をはじめ、国立病院等の多くの医師によつて行われている。しかし、原告らの多くが所属する協議会等から検診医に対し、検診が杜撰、偏見を持つて検診している等の理由で個人攻撃が行われることがあり、一部の検診医は、検診をやめざるを得ない状況に陥つている。これら杜撰、偏見と言われる医師が、日常診察において患者からそのように言われることは皆無であり、また、水俣病検診のみを杜撰、偏見を持つて検診する必然性は存在せず、まさにいわれなき嫌がらせとしか考えられない。

以上のような状況が医師の認定業務への協力を阻害する大きな要因であることは否めない。

(2) 検診数を増やすためには、各科の常駐医による検診体制を整えることが望ましいが、常駐医の確保は極めて困難であるため、非常勤の医師により、殆どの検診を行わざるを得ない状況にある。

(3) 水俣病は特異な神経系疾患であるため、専門的、かつ、高度の学識を有する医師を必要とする。このため、被告県においては主として熊本大学等の医師に依頼して検診を実施しているが、大学の医師は本来、教育、研究、診療等の業務を有しており、また病院の医師も一般外来及び入院患者の診療に従事しているため、水俣病の検診に割き得る日数にはおのずから限度がある。

(4) 検診に従事する医師の殆どは熊本大学等の医師であるが、患者発生地が主として水俣、芦北地域という遠隔の地にあり、往復に多くの時間を要することから、一日当たりの検診数が少なくならざるをえない。

(5) 水俣病の医学的判断の困難性は、各申請人に対する複雑な数多くの医学的検診を要することとなり、一人の申請者に要する時間が長くならざるをえない。

(6) 昭和四九年七月から八月にかけて実施した集中検診をめぐる混乱(後記(五)の(1))のために申請者団体との間で右混乱収拾のため、やむなく熊本大学中心の医師によつて検診を実施することとした事情がある。

(7) 被告県は、昭和四六年度から同四九年度にかけて、水俣湾周辺地区住民の健康状況を把握し、住民の水俣病に対する不安感を解消するとともに今後の保健対策に資することを目的として水俣湾周辺地区住民健康調査を行い、また、熊本大学へ委託して行つた「一〇年後の水俣病に関する疫学的、臨床医学的並びに病理学的研究」により指摘された有明海の水銀汚染に関し、同海及び八代海(北部)沿岸住民の水銀汚染による健康被害の状況を把握し、住民の保健対策及び水銀汚染対策に資することを目的として、昭和四八年度に有明海、八代海沿岸住民健康調査を実施した。このため限られた専門医師がこれらの健康調査のための検診にも従事する必要を生じたので、この間、水俣病認定のための検診はその面からの制約も受けざるをえなかつた。

以上のような事情があるために検診に携わる医師を確保することが困難な状況にあり、検診数も増やすことができないのが実情であり、ここに検診能力の限界がある。

(四)審査能力の限界

(1) 審査委員確保の困難性

審査会は、現在、熊本大学等の医師一七人の委員、専門委員によつて構成されているが、これらの委員も大学での教育・研究ないしは病院での診療等本来の業務を有しているので、審査会の審査に従事しうる時間にはおのずから限界がある。このほか、委員の多くは単に審査を担当するだけでなく、前段に述べたとおり審査資料を得るための検診医数が限られているところから、その検診にも従事する必要があるのである。

また、委員の就任交渉の状況については、被告県は熊大を中心に、公正さが保たれるような審査会を構成することを念頭におき、交渉しているのであるが、右のような事情で応諾を得ることは困難であり、長期間にわたり就任している委員からは心労が多く、交替辞任したい旨の申出がある。

(2) 審査日数増加の困難性

委員は、本来の業務の合間をぬつて審査会の業務に従事しているのであり、審査に従事しうる日数、時間にもおのずから限界があり、時間的に制約されるものであり、しかも審査資料の作成についても、高度の学識と豊富な経験をもつ委員に原則として依頼しており、更に、審査会で保留された事例については、原則として委員による再検診を行うこととされており、検診業務にもあたるという面からの制約もあるのである。

このように、審査については、国立大学等に所属し、知事の指揮監督権の外にあり、かつ、量的、質的に限られ、時間的にも制約のある医師に依存して行わざるを得ず、審査回数又は審査日数を増やすことは、現段階では実現困難な状況にある。

(五)過去の特別事情

(1)検診、審査業務の停止

知事は、昭和四八年頃からの認定申請者の急増により同年一二月には未処分累計が二〇〇〇件を超え、従来のような検診、審査の方法では到底対処し得ない事態となつたため、国(環境庁)に対して認定業務を促進するための対策を要望し、その結果水俣病認定業務促進検討委員会を設置し、そこでの検討結果をふまえて、昭和四九年七、八月に九州の各大学及び国立病院等の医師によつて編成された検診班による集中検診体制をとり、これを実施した。

もとより右集中検診は、従来どおりの質的正確さを確保しつつ、量的な促進を計つたものである。すなわち従来の月間平均検診数が四〇名であつたのに対し、右七、八月の二か月間で内科四三五名、耳鼻咽喉科四一五名、眼科三六四名の検診を行うことができたのである。そして、被告県はこれを続行することにより集中検診後約二年程度でその頃滞留していた未処分累計二〇〇〇件余の殆どを解消しうると見込んでいたのである。

ところが、水俣病認定申請患者協議会(以下、単に「協議会」という。)は、昭和四九年八月二日に約七〇名を動員して熊本県庁に来庁し、県の職員に対して申請者全員に医療費、雑費等の支給を内容とする救済措置を直ちに実施すること、同年七月一日以降実施の集中検診が杜撰、乱暴であるとして、検診カードに担当医師の記名押印をすること、集中検診の責任者及び集中検診の資料により水俣病でない旨の判定がなされた場合の責任の所在を明らかにすること等の点につき、つるし上げ的大衆交渉を行つた。

これに対し、知事は協議会の要求する救済措置のうち、医療実費の支給についてのみ行政上の運用面で実現の可能性があるので努力する旨、また集中検診に関する申請者らの苦情については、申請者らの申出を大学等の医師側に伝え、改善すべき点があれば改善して行きたい旨を明らかにし、認定業務は被告県の職員が如何に努力しても専門医師の協力がない限り行い得ないこと、そして熊本大学等の医師のみによる従来の検診方法では物理的に業務促進ができないことを説明し、協議会側の理解を求めたのである。

しかし、協議会は、これに納得せず、同年八月一二日、二九日、同年九月六、七日の三回に亘り県庁に大量動員して前同様の大衆交渉を行い、前記要求等に加え、集中検診資料はデタラメ検診によるものであるから使用するな等の要求を繰り返した。殊に同年九月六、七日の交渉は、協議会会員や訴外川本輝夫ら約二六〇名が県庁に押しかけ、終始、罵声、怒号をあびせ、県の職員に自由な発言を許さない極めて喧騒、騒然たる雰囲気のなかで、六日午後一時半から翌七日午後五時半頃まで実に二八時間もの長きに及び、しかも、その間県職員に対し灰皿が投げられたり、暴行が加えられるといつた事件、また、県の公害対策局長が途中危険状態に陥つて倒れ、救急車により病院に運ばれる、といつた事態まで発生する異常なものであつた。そこでこの徹夜交渉については、憂慮した熊本県議会において、暴力及び暴力的行為の排除を求める異例の決議まで行われたのである。

このような協議会の行動等により検診業務は昭和四九年九月から昭和五一年三月まで、審査業務は昭和四九年四月から昭和五〇年三月までそれぞれ停止せざるを得なかつたのであるが、この間、新たな認定申請もなされたために検診未了者は、昭和四九年八月末現在一七〇六名であつたところ、検診再開時の昭和五一年四月には二五九五名に、また審査未了者は、昭和四九年三月末現在二一五二名であつたが、再開時の昭和五〇年四月には二八一四名に達したのである。

原告らを含む協議会等の反対行動がなければ、この間少なくとも検診については見込み数二〇〇〇名(八〇%実施した場合一六〇〇名)の検診が終了し、未了者は約六〇〇名(八〇%実施した場合一〇〇〇名)に、また、審査数については見込数五五〇名(八〇%実施した場合四四〇名)の審査が終了して未了者は約二二六〇名(八〇%実施した場合二三七〇名)になつていたはずである。

水俣病についての医学的判断が困難であるうえに、しかも検診、審査業務に携わる医師の確保が困難な状況下における申請者団体の右非協力的な行動が、認定業務を著しく阻害し、処分の遅延に拍車をかけることになつたことは明らかであり、その原因の一端は申請者自らにあつたということができる。

(2)検診拒否

更に、協議会のほか五団体は、昭和五五年九月から「毎月一三〇人審査のなかからひどいことに一人から三、四人しか認定されない。」、「不作為の違法解消に誠意がみられない。」等を理由に、「患者切り捨てに使われている検診を患者はうけないぞ」等と記載したビラを水俣病検診センター前で配付し、同センターに受診に来た申請者に同趣旨の呼びかけを行うなどして、検診拒否の実力行使に入り、現在も継続中である。

ちなみに昭和五四年度の検診計画数(内科、眼科本(予)診、耳鼻科本(予)診、精神科、X線)に対する受診実績の割合は、82.9%であつたが、昭和五五年度の受診率は、同年九月の検診拒否運動開始時において70.5%、昭和五六年三月において三六%、総数では61.9%で、前年度より二一%も低下しているのである。

なお、協議会等の検診拒否運動との関連で、原告らが係わつている状況、又は正当な事由なく検診を受けなかつた状況は次のとおりである。

(原告西川)

昭和五五年八月二六日水俣病検診センターから電話で本人に対して検診のため来所できる都合のいい時期を確認し、検診計画(耳鼻科、内科、精神科の検診を昭和五五年九月一一日から同月一四日までの四日間にわたり実施)をたてて、同年八月二八日付けで通知したが、同年九月初旬頃来所できない旨連絡して受診しなかつた。

(原告川崎)

昭和五四年二月一六、一七日に開催された審査会で審査した結果、答申保留となり、再検診の指示がなされ、その指示に基づき昭和五六年一月五日に眼科予診(検診日一月一四日)の、同年七月二二日に再度眼科予診(検診日七月二八日)の検診通知をそれぞれ行つたが、いずれも何の連絡もなく受診しなかつた。

(原告宮本)

昭和五四年三月二三、二四日に開催された審査会で審査した結果、答申保留となり、再検診の指示がなされ、その指示に基づき昭和五二年三月一二日に耳鼻科(検診日三月一五日)の検診通知を行つたが、後日仕事の都合で来所できないので、四月を希望する旨連絡して受診しなかつた。また、同年四月一九日の耳鼻科検診の際には指定時間に遅れて来所し、G・K・P検査に怒つて退所している。更に昭和五六年七月一日に眼科予診(検診日七月一〇日)の検診通知を行つたが、連絡なく受診しなかつた。

(原告白倉)

昭和五三年九月二八、二九日に開催された審査会で審査した結果、答申保留となり、再検診の指示がなされ、その指示に基づき昭和五六年六月一五日に内科(検診日六月二八日)の検診通知を行つたが、後日眼の手術のため来所できない旨家族から連絡があり、受診しなかつた。

(原告緒方)

昭和五四年一月二五、二六日に開催された審査会で審査した結果、答申保留となり、再検診の指示がなされ、その指示に基づき昭和五六年二月二七日に精神科(検診日三月一五日)の検診通知を行つたが、後日検診を拒否する旨連絡して受診しなかつた。また、同年五月二日に耳鼻科予診(検診日五月二二日)の、同月二一日に眼科予診(検診日五月二六日)の、更に同年一〇月二一日に再度眼科予診(検診日一〇月二七日)の検診通知をそれぞれ行つたが、いずれも何の連絡もなく、受診しなかつた。

(原告森山)

昭和五四年二月一六、一七日に開催された審査会で審査した結果、答申保留となり、再検診の指示がなされ、その指示に基づき昭和五六年六月二日に耳鼻科予診(検診日六月一〇日)の検診通知を行つたが、連絡なく受診しなかつた。また同月三日に眼科予診(検診日六月九日)の検診通知を行つたが、六月八日に急用があり、来所できない旨連絡して受診しなかつた。更に同年一〇月二一日に再度眼科予診(検診日一〇月三〇日)の検診通知を行つたが、連絡なく、受診しなかつた。

(原告坂本輝喜)

昭和五四年八月一日に棄却の処分を行つたのであるが、その間の昭和五三年八月一日に眼科予診(検診日八月一二日)の検診通知を行つたが、連絡なく、受診しなかつた。

なお、右原告は、右眼科予診を同年一〇月一一日及び昭和五四年一月二九日に受診している。

(原告大矢)

昭和五三年四月二七、二八日に開催された審査会で審査した結果、答申保留となり、再検診の指示がなされ、その指示に基づき、当人が県外申請者であるため、昭和五五年七月二日に受診の意思があることを確認して、同年七月九日に内科(検診日七月二五日)の検診通知を行つたが、同月一四日に水俣病を告発する会から当人は身体の具合が悪いので行けない旨の電話連絡があり、受診しなかつた。

(六)原告らの個別事情

水俣病の発症に必須な条件は、汚染された魚介類の経口摂取により、有機水銀が発症レベルまで体内に蓄積されたという事実であるが、これを実証することは不可能であるため、現実的には、申請者の魚介類摂取に係る供述などから、有機水銀暴露の有無を判断し、その暴露が発症量に達していたかどうかは当該申請者が水俣病に罹患しているかどうかで判断せざるを得ないのが実情である。したがつて申請者である原告らの個別事情も早急に処分をし得ない事情として当然考慮されるべきである。

(原告仲村)

昭和四七年一二月申請。審査は同四九年二月、同五〇年八月、同五一年七月、同五二年一〇月、同五三年一二月と頻回に行われており、この間の答申保留の理由は、同人の検診所見が心因反応、性格障害の疑い、眼科のラセン状視野所見などがあるため正確に把握できず、為に審査会は、医学的判断が下せなかつたものである。同五四年五月の審査会において右原告は、所見に心因的影響もあるが、疫学的事実とあわせ、総合的に判断され認定相当の答申がなされ、同五四年五月認定処分した。

(原告長浜)

昭和四八年六月申請。同五一年一〇月の審査会では、運動失調は不明確で、検査時のみの振戦は、医学的に理解困難であり、判断ができず答申を保留された。同五四年七月の審査会において前二回の審査で不明であつた点についての所見が得られたため、認定相当の答申がなされ、同五四年八月認定処分した。

(原告西川)

昭和四八年六月申請。同五〇年九月の審査会において、眼科、耳鼻科に有意の所見がなく、神経内科的には顔面及び下肢の感覚障害のみであり、上肢の共同運動は緩慢であるが、日常動作は円滑であるため、検査所見との整合性を欠いており、医学的に判断に苦しむ所見であつた。運動失調も認められなかつたが慎重な審査を期するため、右不明瞭な点について確認するため答申を保留された。同五一年一〇月の審査会においては、再検査された眼科は、有意の所見はなく、神経内科においても、足背の感覚障害、上肢のジアドコキネーシスが緩慢であり、下肢のみに運動失調が認められた。しかし以上の所見からは水俣病かどうかの判断ができなかつたので、四肢の運動失調の確認のため答申を保留された。同五三年六月の審査会では、顔面及び四肢の感覚障害、運動失調、言語障害などが認められたが、以前の二回にわたる神経内科所見とのくいちがいが大きく、また、つぎ足歩行障害、片足起立障害が認められるにもかかわらず、耳鼻科に平衡障害が認められないなど、所見に不明確な部分があるので、所見の確認を行うため答申を保留された。

前記のとおり同五五年九月以降検診を受けることを拒否している。

(原告松崎)

昭和四八年六月申請。同五一年一〇月の審査会においては、感覚障害以外に有意の所見がなく、疫学的事実を考慮して、慎重を期して答申を保留された。再検診後、新たな所見もなく同五四年二月審査会で棄却相当の答申がなされ同月棄却処分した。

(原告坂本吉高)

昭和四八年六月申請。同五〇年九月の審査会では、眼科において視野の狭窄が見られることもあり、見られないこともあり変動する。耳鼻科においては、語音聴力の悪化がみとめられた。また、神経内科的には、四肢感覚障害は認められるもののパーキンソン症状があり、運動失調は認められなかつた。慎重を期し、眼科所見の有無を確認するとともに、神経内科の症状についても念のため確認するため答申を保留された。同五二年一月の審査会において眼科的には所見がないものと確認され、神経内科の所見も前回の所見が再確認されたが、耳鼻科の所見がコンスタントに認められるため、更に検査の上慎重を期すため答申を保留された。同五四年四月の審査会でそれらの所見をあわせて審査し認定相当と判断され、同月認定処分した。

(原告柳野)

昭和四八年六月申請。同五二年三月の審査会で、眼科、耳鼻科ともに有意の所見なく、神経内科的にも感覚障害のみであつたが、精神科において指鼻試験異常、アジアドコキネーシスの所見が採られているため、運動失調の有無を確認すること及び排尿障害、性的機能障害に関する過去のデータを揃えるため答申を保留された。同五四年七月の審査会では、それらの所見をあわせて審査され、棄却相当の答申がなされ、同五四年八月棄却処分した。

(原告久木田)

昭和四八年六月申請。同五二年六月の審査会では、四肢の感覚障害以外には有意の所見がなかつたが、職業歴(長期間漁業に従事)を考慮し、念のため、再度慎重な検診を、眼科、耳鼻科、神経内科について行つた。同五五年一月の審査会においてこれら所見をあわせて審査し、棄却相当の答申がなされ、同月棄却処分した。

(原告福山ツルエ)

昭和四八年七月申請。同五二年一一月の審査会において、眼科的に有意の所見なく、耳鼻科的にも有意の所見はない。神経内科的には、下肢末端のみの感覚障害、脱力、上肢のみの共同運動障害の疑いであり、慎重を期し、運動失調など神経学的所見の確認のため神経内科再検診とされた。同五五年五月の審査会においてこれらの所見をあわせて審査し棄却相当の答申がなされ、同年六月棄却処分した。

(原告福山貞行)

昭和四八年七月申請。同五二年二月の審査会で、神経内科、眼科的には有意な所見はないが、精神科では感覚障害を認めており、耳鼻科的に聴力障害が疑われたので、念のため神経内科の再検診を行うこととし答申を保留された。この結果も参考にした上で、同五五年五月の審査会で審査し棄却相当の答申がなされ同年六月棄却処分した。

(原告田上)

昭和四八年七月申請。同五二年一二月の審査会で、眼科、耳鼻科的に有意の所見なく、神経内科的には、右上下肢の感覚障害と、右半身の不全麻痺が主症状であつたが、精神科の所見に四肢の感覚障害、共同運動障害の疑いもあり、それらの症状を確認するため答申を保留された。再度の検診の結果、四肢と胸部の感覚障害は認められたが、運動失調は認められず、同五五年八月の審査会で棄却相当の答申がなされ、同年九月棄却処分した。

(原告川崎)

昭和四八年七月申請。同五三年一月の審査会で、眼科、耳鼻科的に有意の所見なく、神経内科的には右半身の感覚障害、右片麻痺、右下肢の病的反射などの異常な所見が認められたものの、共同運動障害は認められなかつた。精神科では共同運動障害が所見として採られており、運動失調等の確認のため再検診することとされた。同五五年一〇月の審査会では、神経内科的に右半身及び左上下肢の感覚障害並びに右側優位の四肢運動障害が認められたが、この運動障害には脱力の関与も考えられ、運動失調があるとは判断できず、眼科の所見を補つて判断するため答申を保留された。前記のとおり同五六年一月以降受診せず。

(原告宮本)

昭和四八年九月申請。同五四年三月の審査会において、神経内科的に四肢及び顔面に強い全身の感覚障害並びに共同運動障害、眼科的には、信頼性に欠けるが視野の狭窄が認められるが、同四七年七月に行われた熊大精神科の診察時には特に異常所見は認められておらず、また、同人の居住歴にも問題があるため、臨床所見の再確認及び居住歴の確認のため答申を保留された。前記のとおり同五六年七月以降受診せず。

(原告白倉)

昭和四九年五月申請。同五三年九月の審査会では、神経内科的に共同運動障害が認められたが、感覚障害は認められず、耳鼻科的には聴力障害が認められるが平衡機能障害はない。眼科的には眼球運動は正常であり、視野は白内障と網膜色素変性のため検査不能であつた。慎重を期し、神経学的所見を再度確認するため答申を保留された。前記のとおり同五六年六月以降受診せず。

(原告緒方)

昭和四九年八月申請。同五四年一月の審査会では、眼科及び耳鼻科的には有意の所見がなく、神経内科的には、四肢及び口周囲の感覚障害が認められ、共同運動障害はないか、あつても極めて軽度であつて有意に認められない程度であるにもかかわらず、ロンベルグ徴候、つぎ足歩行障害が高度であり、機能障害の程度がアンバランスであり、医学的に理解困難であつた。家族歴(同人の両親等が認定患者)を考慮し、慎重を期し、右の神経症状の再確認のため答申を保留された。前記のとおり同五六年三月以降検診を受けることを拒否している。

(原告川野)

昭和四九年八月申請。同五四年一月の審査会において口囲及び四肢の感覚障害及び言語障害以外には有意の所見なく、他に配慮すべき所見もなかつたので、棄却相当の答申がなされ、同年二月棄却処分した。

(原告森山)

昭和四九年九月申請。同五四年二月の審査会では、眼科的には有意の所見なく、耳鼻科的にも、視運動性眼振で垂直方向抑制がみられるのみであり、神経内科的にも、四肢の感覚障害以外には有意の所見はないが念のため慎重を期し、再検診することとし、答申を保留された。前記のとおり同五六年六月以降受診せず。

(原告坂本輝喜)

昭和五〇年一月申請。同五三年八月一二日の眼科予診は本人の都合により受診せず。同五四年七月の審査会では、四肢の感覚障害以外には所見がなく、棄却相当の答申がなされ、同年八月棄却処分した。

(原告岩内)

昭和五〇年一二月申請。同五五年四月の審査会において、四肢感覚障害、共同運動障害、視野狭窄及び沈下、聴力障害、平衡機能障害等の症状が認められ、疫学条件とともに総合的に判断された結果、認定相当の答申がなされ、同年五月認定処分した。

(原告川本)

昭和五一年三月申請。同五五年一月の審査会において、頭部、左半身、右上下肢の感覚障害の他に有意の所見がなく、棄却相当の答申がなされ、同月棄却処分した。

(原告荒木)

昭和五二年一月申請。同五四年一二月の審査会では、眼科、耳鼻科的には有意な所見はなく、神経内科的にも、四肢の感覚障害はあるが、共同運動障害は認められなかつた。精神科においては共同運動障害が所見として採られており、再検診し、運動失調の有無を確認するため答申を保留された。

(原告楠本)

昭和五二年五月申請。同五五年八月の審査会では、耳鼻科的には、有意な所見は認められず、眼科的には視野の狭窄はなく沈下が認められるが、網膜色素変性症の影響で有意でなく、眼球運動も正常である。神経内科的には、四肢の感覚障害、指鼻試験障害、膝踵及び脛叩き試験障害、片足起立及びつぎ足歩行障害等が認められる。しかし、糖尿病の既応歴があり神経伝導速度が遅延しており、尿糖高度陽性であり、糖尿病性の高度のニューロパチーが疑われ、右神経内科所見はそのためのものと考えられることから、棄却相当の答申がなされ、同年九月棄却処分した。

(原告高木)

昭和五一年三月申請。同五四年四月の審査会では、眼科、耳鼻科的には有意な所見はなく、神経内科的には、四肢及び顔面の感覚障害と歩行障害が認められるのみであるが、精神科では感覚障害のほか、振戦、共同運動障害の疑いとしており、慎重を期すため運動失調等の所見の有無を確認することとし、答申を保留された。

(原告野崎)

昭和四八年六月申請。同五一年二月の審査会において、耳鼻科的に有意な所見はなく、神経内科的にも、軽度知能障害、指示動作がやや不良である以外に、特に所見はない。しかし、眼科においては、視野狭窄の疑いがあつた。また、同人は、同三四年生まれであり、母も水俣病に認定されていることから、胎児性水俣病の可能性もあるため、慎重を期して答申を保留された。同五一年八月の審査会では、眼科では視野の狭窄は認められなかつたが、言語、動作等に軽い障害が認められ、精神科的には知能障害が認められるが、小児例であるためこれらに関する知見を集めた後一括して慎重に検討することとした。同年一一月の審査会においてその検討を行つたが結論が得られず、発病時期等疫学的事項を更に調査することとし、答申を保留された。その後、同五二年一〇月の審査会においても結論が得られず再度慎重を期して検診を行うこととし、保留とされた。小児水俣病の判断は非常に困難であるため、環境庁において、水俣病認定検討会を設置して検討してきたが、その結論が同五六年七月に小児水俣病の判断条件として示され、その後、審査会は小児の審査の進め方、資料収集等について協議を重ね、同人については同五七年八月二七日開催の審査会で審査の結果、認定相当の答申がなされ、同年九月二日認定処分した。

(原告大矢)

昭和四九年四月申請。同五三年四月の審査会では、眼科的には有意な所見はなく、耳鼻科的には平衡機能障害が疑われたが、神経内科的には、右上下肢及び左半身の感覚障害以外特に有意な所見はないが、精神科において、共同運動障害が所見として採られているので、主として共同運動障害の有無について確認のため答申を保留された。前記のとおり同五五年七月受診の意志を確認して検診の連絡をしたが受診せず。

(七)答申保留

以上述べてきた早急に処分をなし得ない事情に加えて、処分に長時間を要するという理由として、医学的に判断がつかない場合にとられている答申保留がある。すなわち、水俣病の症候は、有機水銀中毒症として非典型的であつて、非常に判断困難であるうえに、加齢現象あるいは合併症のために判断しにくいものが多く、更に鑑別に重点をおいた再検診あるいは新たに精密検診を必要とする場合がある。また、一応水俣病でないと考えられるものでも水俣病の疑いを全く捨てきれない場合は、一定期間の経過をみて再検診を行うこととするなど水俣病患者の洩れがないように慎重な審査を行うことを旨としている。その他、症候の変動が大きいために判断困難な事例、運動機能の検査所見では異常であるにも拘わらず日常的動作において正常であるなど神経学的な整合性に欠ける事例或いは知能障害、高齢等のために所見を十分にとることが不可能な事例もあり、このような事情により答申保留になるものが少なからずあり、処分を早急に行えない大きな理由となつている。審査会においては、医学的にぎりぎりの所まで水俣病として判断しているのであるが、それでも判断しきれない者が答申保留とされているのである。

仮に原告らが審査会で保留されることなく一回の審査で答申されたとすれば、既に全原告の処分は完了しているであろう。しかし一回の審査での答申を求めるとすれば先に述べたとおり医学的な判断が困難なことから保留者の答申は「判断不能」や「わからない」といつたものになるとも考えられ、この場合、知事はこれらの者を当該水質汚濁の影響があるとして認定することは困難であろう。単に迅速さのみが要求されるのであれば、このような手段も採り得るであろう。しかしそれでは真の被害者救済とは言い難い。公害健康被害者の真の救済のためには、審査会の医学的判断が得られるまで待つて処分することが真の被害者救済となるのである。

答申保留となつた原告らのうち何人かは、一応水俣病でないと考えられるが、水俣病の疑いを全く捨てきれないことから念には念を入れて再度審査するということで、保留されており、また、その余の原告らについても、医学的判断がつかないので慎重に審査するという目的で保留されているものである。

このように答申保留の持つ意味からすれば、認定申請者に対する答申保留は、実質的な処分(中間処分)であるというべきである。

もし、法律上、認定処分、棄却処分のほかに保留処分又は経過観察処分という処分が認められれば、本件の場合、形式的にも処分がなされないという不作為は存しないこととなる。

もちろん、保留処分は法律上認知されていないが、保留は医学的にみて認定申請者が、水俣病であるかどうかその時点では判断できないという審査会の一つの判断である。しかも、保留理由は個々の申請者に通知され、保留後は保留前に比較し、治療研究事業としてより手厚い措置が加えられるのである。

したがつて、ある申請者について答申が保留された場合、法律上保留処分はないものの、実質的にみて、一種の処分がなされたものと同視できるものというべきであり、この点、保留前の未審査の状態とは異なるものというべきである。

本来不作為の違法確認の訴訟は、申請に対する行政庁の握り潰しを防止するために設けられたものである。本件では、知事は申請を握り潰すようなことをしているのではなく、最大限の努力をして審査を行い、適切な処置をとつているし、申請者にも通知をして審査の進行状況を知らせ、認定・棄却処分遅延による不利益の防止策も講じているのであるから、かかる場合には実質的にみれば、行政庁の不作為が存在するとはいえないものである。

したがつて、右の点は、不作為の違法確認の訴訟においても考慮されるべきであるが、少なくとも国賠法における違法性、有責性及び損害の有無の判断をなすにあたつては斟酌されるべき重要な事情のひとつである。

4  認定業務促進のための被告らの努力

(一)被告国の努力

被告国は、水俣病の認定業務の促進を環境行政の最重要課題の一つとして被告県とともにできる限りの努力を払つてきた。

(1) 昭和四八年ころから知事への認定申請が急増し、検診医の不足等が認定業務促進の隘路となつていた。このため環境庁は、認定業務促進につき被告県と協議を進め、いわゆる第三水俣病問題に関連して、同四八年七月から同四九年三月までの間に有明海沿岸の住民約一〇万人に対し行つた住民健康調査に従事した九州の各大学及び一部の国立病院に検診を依頼するとともに、その協力方法について検討するため被告県と共同して、昭和四九年二月水俣病認定業務促進検討委員会を設置した(委員は、熊本、鹿児島、九州、久留米及び長崎の各大学の教授、国立福岡病院、同大村病院及び同熊本病院の院長等である)。

同委員会においては、検診等の促進のための具体策が検討され、その結論に基づき被告県は昭和四九年七月、八月に集中検診を行つた。

(2) 水俣病の認定申請者の症候につき水俣病の判断が困難な事例が増加し、認定業務の遅れの一つの原因となつていることから、環境庁は、水俣病の具体的な判断条件を整理するため、昭和五〇年五月水俣病の専門家からなる水俣病認定検討会を設置した。同検討会における検討結果を踏まえて、環境庁は、昭和五二年七月一日には「後天性水俣病の判断条件について」を、昭和五六年七月一日には「小児水俣病の判断条件について」をとりまとめて関係各県市に通知した。

(3) 昭和五一年一二月にいわゆる不作為判決が示されたこともあり、被告国においては、水俣病対策をより一層推進するため、同五二年三月内閣官房長官、環境、大蔵、自治、厚生、通商産業及び文部の七閣僚(同五二年一一月より国土庁長官も参加)で構成される「水俣病に関する関係閣僚会議」が設けられ、同五二年六月二八日「水俣病対策の推進について」の申合せが行われた。

この申合せに基づき、被告県の認定業務の促進のため被告国が講じた主な施策は以下のとおりである。

① 環境庁は、右(2)で述べたとおり後天性水俣病及び小児水俣病の判断条件をとりまとめた。

② 判断困難な事例の研究を行うため、環境庁は、日本公衆衛生協会に委託して熊本県、鹿児島県、新潟県及び新潟市の認定審査会委員全員で構成される症例研究班を同五二年一二月に設け、現在まで引き続き研究を行つてきている。

③ 被告県とともに各大学、国立病院等の協力を得て常駐医師の確保等検診医の増強に努め、また、検診に必要な機器の整備を行うことにより、被告県において同五二年一〇月以降月間一五〇人検診、一二〇人審査(同五四年四月からは一三〇人審査)ができる体制を整えた。

④ 熊本県外在住者の申請者の利便に資するため、検診を行う機関を同五六年度に東海地区に設置し(国立名古屋病院)、同五七年度には関西地区に設置すべく予算措置が行われ、現在被告県とともに準備を進めているところである。

⑤ 現地の実情に即した業務の推進に資するため、熊本県の幹部職員(首席医療審議員)として国の職員(医師)を同五二年八月一六日以降出向させている。

⑥ 水俣病対策のための必要な経費の確保に努め、熊本県の負担が過大にならないよう配慮している。

⑦ 認定業務促進の基盤を充実するため検診審査に必要な研究等を多角的に実施している。

また、この申合せに基づき治療研究事業の内容を逐次改善している。

(4) 昭和五三年六月二〇日水俣病対策についての閣議了解が行われ、これに基づいて環境庁は、同年七月三日関係知事及び市長に対し認定促進に係る通知を発した。

(5) 昭和五三年一〇月二〇日第八五臨時国会で「水俣病の認定業務の促進に関する臨時措置法」(以下「臨時措置法」という。)が成立し、同年一一月一五日公布、同五四年二月一四日施行された。これにより一部原告らを含む救済法に基づく申請者で、いまだ審査会の意見が示されていない者につき希望する者は、環境庁長官に認定に関する処分を求めることができることとなつた。同法に基づき環境庁では、同五四年一二月一四日同庁の附属機関として臨時水俣病認定審査会を設置した。

環境庁と被告県は、臨時措置法に基づき環境庁長官に申請できる者全員に対し、申請の手続をするよう呼びかける文書と認定申請書(書式)を同五四年五月と同五七年六月に発送している。これに対し、協議会等は、同五四年五月の呼びかけ文書を集め、熊本県庁前で焼き捨てる等の行動を行い、ここでも認定業務促進に真向から反対する行動をとつている。

臨時措置法に基づき、同五四年三月から同五六年六月までの間に五〇名の申請者があつたが、環境庁ではこれらの者について所要の検診を行つたうえ、同五五年二月から同五六年一二月までの間に臨時水俣病認定審査会の意見をきいて全員についてその処分を終えている(認定九名、棄却四一名)。その後、同五七年六月にあらためて呼びかけを行つたところ、同年七月末までに新たに一九名の申請があつたが、環境庁ではこれらの者を早急に処分すべく準備を進めているところである。

(6) 被告国は、水俣病に関する医学的調査及び研究を総合的、積極的に実施するため、昭和五三年一〇月一日水俣市に環境庁の附属機関として国立水俣病研究センターを設置した。

同センターにおける研究成果は、逐次認定業務の促進に寄与するものである。

(二)被告県の努力

知事は、被告国と同様水俣病認定業務を熊本県における最重要課題の一つとして、その促進のため、予算面、組織面でできる限りの努力を払つてきた。これを不作為判決の前後に分けて述べる。

(不作為判決前)

(1) 昭和四八年七月、熊本県の補助により検診のための専門施設として健診センターを水俣市立病院に設置し(現在は熊本県の検診センター)、検診医の負担軽減のため、予備的検査を行うこととし、同センターにそのための県職員を配置した(職員は、昭和四八年度は六人であつたが、現在は、常勤医師一人を含む三〇人。このほか非常勤職員は医師一人を含め一三人)。

(2) 昭和四九年二月、検診業務の促進を検討するため、前記のとおり水俣病認定業務促進検討委員会を設置し、その具体策を検討したが、その結論に基づき、同年七月、八月に集中検診を行つた。

(3) 審査能力の拡大を図るため、それまで不定期的に開いていた審査会を昭和四七年七月以降は二か月に一回それぞれ二日間開くこととし、審査数も昭和四八年三月以降は各回約八〇人としたが、更に昭和五〇年四月からは月一回二日間、毎回約八〇人(後記のとおり現在は約一三〇人)とした。

その間、昭和四八年五月からは、それまで同時に審査をしてきた鹿児島県関係分(審査委員は両県委員を兼務)を切り離し、両県それぞれの審査の促進を図つた。

(4) また、同じく審査能力の拡大を図るため、第三期審査会の発足(昭和四九年一一月)に際し、条例の一部を改正し、専門委員制度を設ける等の措置を講じた。

(5) このほか、認定申請者の負担の軽減を図るため、一定の申請者に対して研究治療費(健康保険等の自己負担相当額)、研究治療手当、介添手当を支給する等、救済法に準ずる医療救済措置も講じた。

(不作為判決後)

(1) 知事は、これまでの申入れ同様、更に、環境庁等に対し、認定制度を中心とする水俣病問題につき抜本的対策を講じるよう再三要望した。

(2) このような情勢を踏まえて、国は、前記4の(一)の(3)記載のとおり昭和五二年三月「水俣病に関する関係閣僚会議」を発足させ、対策の検討を行つてきたが、同年六月二八日、その検討結果を「水俣病対策の推進について」としてまとめた。更に、これに基づき、国は、同年七月一日、熊本県の要望に対し、認定促進に関する各般にわたる施策の推進を図ることを内容とした環境事務次官回答を出し、同時に、水俣病の判断につき困難な事例が増加してきたことに対処するため、医学的知見の進展を踏まえ、医学の関係各分野の専門家により進めてきた検討の成果をとりまとめて、これを「後天性水俣病の判断条件」として示した。

(3) この間、知事は、前記昭和五二年七月一日の環境事務次官回答に基づき、同年一〇月以降、熊本大学医学部関係各教室等の協力を得て、「月間一五〇人検診、一二〇人審査態勢」を、更には、昭和五四年四月からは「月間一三〇人審査態勢」をとり、検診、審査業務の促進を図つている。

(4) なお、これに伴い、検診センターの職員(常駐検診医二人を含む。)、検査機器を逐次増員、整備したほか、昭和五二年八月には、①水俣病に係る各種の住民相談、②申請者、認定患者及び関係市町村等との連絡、③認定申請者治療研究事業の実施、④認定患者に対する保健福祉事業の実施を担当する窓口として水俣病相談事務所を設置(専任職員四人、その他検診センターと兼務で一一人)した。

(5) なお、昭和四九年四月から一定要件を満足する者に対して後記5のとおりの医療救済制度(治療研究事業)を設け、毎年その改善を図つてきたが、特に、昭和五〇年四月からは、指定地域等に五年以上居住し、認定申請後一年以上経過した者を支給対象に加えた(これにより殆どの認定申請者は、申請後一年経過すれば法に準じた医療費等の給付が受けられることとなつた。)。また、昭和五三年一月からは、重症者については前記支給要件の申請後一年を六月に短縮し、更に、昭和五四年四月からこの重症者の範囲を拡大した。また、昭和五二年四月からは、はり、きゆう施術療養費を支給対象とし、更に、昭和五四年四月からは、保留者に限つてマッサージ施術療養費を支給対象とした。このほか、給付額の改定を行つている。

(6) なお、昭和五一年四月半ばから審査会委員清藤武三熊本大学医学部講師(耳鼻科)を県職員として迎え、同医師を同年五月一日から検診センター所長に就任させ、その後同五二年七月半ばまで検診業務に従事させた。その後安武敬昭医師(内科)が同年八月一日から右所長に就任し、現在に至つている。

(7) このほか、昭和五四年四月に熊大医学部第一内科教室より神経内科の医師一名を常駐の検診医として確保することに成功し、検診業務に当たらせている。そして、いつでも常駐医の受入れができるように昭和五四年度には家族同伴医師住宅二戸、同五五年度には単身者医師用二戸を建設している。

また、昭和五三年には、検診業務を行うための庁舎を新たに建設し、検診機器も検診数の増加に対応できるように整備充実し、とりわけ、昭和五五年度には全身用X線コンピューター断層撮影装置の導入もはかつたところである。

5  早急に認定棄却処分を行えないことに対する医療救済策

(一) 被告県は、被告国の補助を得て、昭和四九年度から水俣病認定申請者治療研究事業(以下「治療研究事業」という。)を実施している。同事業は、前述のような被告らの認定促進の努力にもかかわらず、結果として長期間処分がなされない申請者の負担を軽減することを目的として、一定の要件に該当する認定申請者に対し、医療費等の支給を行おうとするものであり、これにより、救済法上認定された者に対する給付とほぼ同等の給付が行われている。その対象者は、当初保留となつている者に限られていたが、五〇年度からは水俣、芦北地域等に五年以上居住し、認定申請後一年(五三年度より重症者は六カ月)を経過した者等にまで拡大されている。

(二) 被告らは、昭和四九年度より治療研究事業を開始し、その後も逐次その内容の改善、充実を図つてきたところであるが、昭和五七年度は次のような内容となつている。

(1) 対象者

対象者は、次のいずれかの要件に該当する者とされている。

① 水俣、芦北地区等に五年以上居住し、認定申請後一年(重症者については六月)以上経過している者。

② 審査会の意見に基づき、知事が医師の観察を必要と認めた者(答申保留者)。

③ 審査会の答申があつて、知事が認否の処分を保留している者(処分保留者)。

④ 行政不服審査法に基づく裁決において不作為を認められた者及び環境庁と協議のうえ、これらの者と同一条件にあるとして別に定める者。

昭和五七年六月末における熊本県の未処分者は四六三七名であるが、そのうち治療研究事業の対象者は四一八〇名であり、うち①のみに該当する者は二七〇九名、②又は③に該当する者は一四七一名である。

なお、④に該当する者は、現在②又は③に該当している。

(2) 給付の内容

治療研究事業による給付は、後に述べる救済法に基づく給付を踏まえたものであり、給付の目的、内容は類似している。

① まず、前項①に該当する者に対しては、研究治療費及びはり、きゆう、マッサージ施術療養費を支給しており、その内容は次のとおりである。

ア 研究治療費

研究治療費の支給は、医療機関において水俣病認定申請に係る疾病に関し医療の給付を受けた場合、その者の自己負担額を支給するものである。

なお、被告県は、対象者に対し水俣病認定申請者医療手帳を交付しており、医療機関は手帳の提示を受けて自己負担分を被告県に請求する仕組みとなつている。したがつて、研究治療費の支給は実質的には医療の現物給付として機能している。

イ はり、きゆう、マッサージ施術療養費

はり、きゆう、マッサージ施術療養費の支給は、「あん摩、マッサージ、指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」による免許を有するはり師、きゆう師からそれらの施術を受けた場合、支払額と次に示す金額を比較して、いずれか少ない方の額(ただし、はり、きゆう併せて一カ月五回を限度とする。)を支給するものとして行われるものである。

はり又はきゆうのみの場合

一回 一〇〇〇円

はり、きゆう併用の場合

一回 一五〇〇円

② また、前項②ないし④に該当する者に対しては、研究治療費、はり、きゆう、マッサージ施術療養費、研究治療手当及び介添手当を支給しており、その内容は以下のとおりである。

ア 研究治療費

前項①に該当する者に対するものと同じ給付を行うものである。

イ はり、きゆう、マッサージ施術療養費

右①に該当する者に対する給付に加え、マッサージについても一回六〇〇円を限度として支給するものである(ただし、はり、きゆう、マッサージ併せて一カ月五回を限度とする。)。

ウ 研究治療手当

申請者の入通院に要する諸経費に充てるため、次の基準により支給するものである。

(Ⅰ) アの医療の給付又はイのはり、きゅう、マッサージの施術を受けるため入院若しくは通院をし、又は往診を受けた場合 一日五〇〇円

(Ⅱ) 保留者が再検診を受けた場合 一日五〇〇円(再検診手当という。)。

(Ⅲ) 御所浦町等の離島に居住する者が、島外の医療機関へ通院し、医療を受けた場合及び再検診を受けた場合 右(Ⅰ)及び(Ⅱ)の外に一日五〇〇円(離島加算という。)。

エ 介添手当

介添手当とは、日常生活において介添を要する重症患者が、実際に介添を受けた場合、その費用に充てるため次の基準により支給するものである。

(Ⅰ) 介添を受けた日数が月二〇日以上の場合 一万円

(Ⅱ) 介添を受けた日数が月一〇日以上二〇日未満の場合 七五〇〇円

(Ⅲ) 介添を受けた日数が月一〇日未満の場合 五〇〇〇円

(三) 治療研究事業の周知徹底を次のとおり行つている。

被告県は、認定申請書を受理したときは、申請者に対し受理通知とともに「水俣病認定申請者治療研究事業のしおりⅠ」と題する書面を送付し、また、申請者が、申請後一年を経過したときは水俣病認定申請者医療手帳を送付し、治療研究事業の適用に遺漏がないよう努めている。更に、申請者が保留となつた場合は、保留通知とともに「水俣病認定申請者治療研究事業のしおりⅡ」と題する書面を送付し、保留者に対する給付の内容について周知徹底を図つている。

また、被告県は、前記のとおり昭和五二年八月水俣市にある熊本県水俣病検診センターに設置した水俣病相談事務所において、治療研究事業に関すること等について申請者等の相談に応じるなど、可能な限りの措置を講じている。

(四) ところで、治療研究事業は、認定申請後処分が出るまでの申請者の負担を軽減することを目的としているのに対し、救済法は被認定者に対して民事責任と切り離した特別の措置を講じることを、また、補償法は被認定者に対して民事責任を踏まえ、損害の補償を目的としていることから、それぞれの給付の内容を単純に比較することはできないが、各制度の給付の対象及びその内容を表にまとめると別紙治療研究事業、救済法、補償法の給付の比較表記載のようになり、その間各給付に差があるものの、各制度の趣旨、目的を考慮すれば、治療研究事業による申請者に対する給付は必要かつ十分なものであるといえよう。

ちなみに、被告県が治療研究事業に基づき、原告らに対しこれまでに(昭和五七年七月末現在)給付した支給額は別紙治療研究事業に係る医療費等支給実績一覧表記載のとおりである。

6  損害について

原告らは、本件において認定処分の遅れ自体をとらえて慰藉料の請求をしているのであるが、仮に原告らに処分遅延による精神的苦痛があつたとしても、それは金銭をもつて賠償すべきものではない、換言すれば、原告ら主張の精神的苦痛は社会生活上受忍すべき限度内のものであるというべきである。

一般に人の喜怒哀楽には個人差があるが、右個人的感情の強弱をもつて慰藉料を算定すべきでなく、あくまで通常人を基準として客観的に定められるべきである。

また、人の怒り、悲しみ、不安感のすべてが法的保護に値する損害として損害賠償の対象となるものではなく、諸般の事情に照らし金銭賠償の対象となるものか否かを判断すべきものである。

原告らは、水俣病による身体障害の補償と別個のものとして本件慰藉料請求をするものであるが、このような慰藉料請求は、水俣病による身体障害の補償がその認定の遅れにもかかわらず、申請時に遡つて支給されるとか、あるいは遅延利息を附されるとか、更には早急な処分が困難な場合の医療救済策として補償法、救済法に準じた医療救済策が講じられているとか、ということになれば十分償われているものであつて、独立に評価して金銭賠償の対象とすべきものではない。このことは慰藉料が財産的損害の評価が不十分な場合の補完的機能をもつものとして認められ、制裁的機能を有するものとして認められていないことからも首肯されるところである。

これを本件についてみるに、水俣病認定申請に対し、認定又は棄却の処分がされた状態と未だされていない状態とを比較すれば、未処分状態にある申請者は処分がされていないという点で精神的に不安であると一応いい得るであろう。しかしながら、原告らの右精神的不安感情をもつて、法的保護に値する損害といい得るか否かについては、次のごとき諸事情を考慮することが必要である。

すなわち、前記3で述べたとおり、水俣病が特異な神経疾患であり、地域的にも限定されている疾患であるため、検診、審査に携わる医師の数が限定されるなど、右医師の確保が困難であること、更に医師本来の業務から検診数、審査数を容易に増やすことができないこと、近時認定される者の大半は水俣病としては軽症であり、類似している他疾患との判別が困難であり、精密検査や経過観察が必要であるとして保留される例が多いこと、過去において申請者数が激増した時期があつたこと、最近数年間においても処分者数とほぼ同程度の申請者数(再申請者数の増加)があること、過去において検診業務及び審査業務が停止し、未処分者が滞留したこと等、早急に処分し得なかつたことについてやむを得ない事情が存在し、こうした事情は、原告らも十分認識しているところである。かかる状況下において、被告らは無為無策に拱手していたものではなく、前記4で述べたとおり水俣病検診センターの人的、物的設備の充実を図り、医師にも最大限の努力を求め、「月間一五〇人検診、一三〇人審査態勢」を確立し、検診、審査業務の促進を図る等、その行い得る限りの行政努力を重ねてきた、ことの諸事情がこれである。そして、更に「水俣病の認定業務の促進に関する臨時措置法」の成立により、一部原告らについては、希望すれば、環境庁長官に認定に関する処分を求めることができるにもかかわらず、自らその手続をとらず迅速に処分を受ける利益を放棄していることも、また考慮されるべき事情である。

次に、未処分申請者と棄却処分を受けた申請者とを対比すると、未処分申請者は、前記5のとおり早急な処分が困難なための医療救済策として、研究治療費、研究治療費手当、介添手当、はり、きゆう施術療養費の支給を受けることができる点において、棄却処分者に対し経済的に有利であり、また、認定処分がされた場合においては、補償、給付の請求は認定前にすることができ、その効力は請求日に遡つて生ずる(補償法一〇条)のであるから、未処分状態にある申請者が認定者に比較して経済的に不利益であるといい得ないのである。

以上の請事情を総合すれば、原告らの未処分状態における精神的な不安感情は社会生活において受忍すべき範囲内のものであり、原告らには法的保護に価する損害(金銭をもつて賠償しなければならない損害)は発生していないというべきである。

ところで、原告らは、未処分状態が、原告らをして水俣病に対する適切且つ十分な治療が受けられず、認定者との社会的経済的差別を受け、果ては故なき迫害すら受ける等の結果をもたらし、ために精神的損害を蒙つていると主張するところ、右医療を受けられないことによる損害については、なるほど不作為判決も救済「法による救済は具体的には医療費、医療手当、介護手当の支給という形でなされる(同法第一条)ものであるから、認定処分の遅延は同法による救済を受ける権利を実質的に否定する結果を招来する」と判示しているが、被告らは、前記5のとおり右遅延の救済策として、救済法、補償法に準じた医療救済策を講じており、また、原告らが今後認定になれば、前段に述べたとおり認定申請時にさかのぼつて救済法、補償法上の医療費等の支給が受けられるし、特に、審査会で審査され医学的判断の困難等のため答申を保留された者等については、前記のとおり、単に医療費(研究治療費)のみでなく、治療研究手当として入院、通院、往診一日あたり四〇〇円(天草郡御所浦町等から町外医療機関への通院の場合、更に四〇〇円加算)を支給するほか、介添を受けた場合、介添えを受けた日数に応じて五〇〇〇円、七五〇〇円又は一万円の介添手当を支給する等の措置をとつており、結局救済法、補償法の適用上原告らの主張する医療に関する損害は、ないというべきである。

7  認定原告らの予備的請求について

補償法に基づく水俣病認定申請(救済法についても同様)につき認定がなされたときは、補償法は同法三条一項の補償給付の支給を行うことのみを規定しており、認定原告らがあらかじめ補償法一〇条一項に基づく補償給付の請求をし、右補償給付の支給を受ける限り、何ら損害はないところ、認定原告らはチッソとの補償協定に基づく給付を選択したのである。したがつて、その結果、チッソから受けるべき給付の支給額が予想額よりも少かつたとしても、それは自らの選択の結果であるとともに、あくまでチッソとの間の問題であるから、知事の本件不作為と何ら法的因果関係はないものというべきである。

また、チッソとの補償協定による終身特別調整手当は、認定処分を受けた者に対し支払われるものであるから、知事の処分遅延により、右手当等の受給を阻害されたとして、手当相当額の損害賠償を請求するためには、知事の故意過失として、単に知事が処分の遅延を知つていたか、或いは過失によりこれを知らなかつたというだけでは足りず、知事が原告らに対し、認定処分をなすべきことを知つていたか、或いは認定処分をなすべきことを知りえたのに過失によりこれを知らなかつた場合において、認定処分をなすことなくこれを放置したことを必要とするのである。終身特別調整手当が認定処分を受けた者にだけ支払われるのであるから、知事の不作為を不法行為とするためには、知事の故意過失として原告が認定されるべき者であるという知事の認識、或いは過失によるその不認識が必要なことは当然であろう。

しかしながら、認定原告らに対し認定をなすべきかどうかは、高度の医学的判断であり、審査会で判断しえない、すなわち審査会で知りえないことを知事が知らないのは当然であり、右のことを知事が知らなかつたとしても、知事に過失があつたとはいえない。

右のとおり、認定原告らの予備的請求も、また理由がないというべきである。

以上のとおりであるから、被告らには国賠法に基づく損害賠償責任はないというべく、原告らの本訴請求はいずれも理由がないものである。

四  被告らの主張に対する原告らの反論

1  不作為判決の被告県に対する非拘束性について

被告県は、知事の水俣病認定業務が国の機関委任事務であり、被告県は単なる費用負担者にすぎないから、不作為判決の既判力を受けるいわれがないと主張するが、右機関委任事務については、被告国はもちろんのこと被告県も単なる費用負担者というだけにとどまらず、国賠法三条一項にいう公務員の選任若しくは監督に当る者として責任を負担するのであり、したがつて、不作為判決の既判力により処分の遅れによる違法を争うことはできないのである。

2  知事の不作為に対する国賠法上の違法及び故意、過失の不存在について

(一) 被告らは、行訴法三条五項にいう「違法」は、国賠法一条一項にいう「違法」とは異なるから、不作為判決の効力は本訴に及ばないと主張するが、右主張は次に述べるとおり失当である。

(1) 既判力とは、後訴の裁判所に対して、同一事項について内容的に矛盾する判断を禁ずる確定判決の効力である。行訴法はこれについて明文の規定を置かず、もつぱら、民事訴訟の一般原則に委ねているが、今日では、抗告訴訟においては、請求棄却、訴え却下判決のみならず、請求認容判決にも既判力を認めるのが通説である。既判力が問題となるのは、殆ど後訴の国家賠償との関係に限られ、抗告訴訟でその存否が確定される違法性と国家賠償請求の要件としての違法性とが同一であるかが問題とされるのであるが、これを同一とするのが通説的理解となつている。抗告訴訟において違法と判断された行政行為が、国家賠償との関係では適法と判断される余地を認めることは、法秩序の一体性の観点から背理である。

(2) そこで、具体的に、行訴法三条五項の違法と国賠法一条一項の違法とを比較検討してみるに、行訴法三条五項の不作為違法確認訴訟における違法とは、法文上明らかなように「行政庁が法令に基づく申請に対し、相当の期間に何らかの処分または裁決をすべきにかかわらず、これをしないことについての違法」ということになる。つまり、「相当の期間」内における行政庁の処分(作為)義務を論理的前提として、その作為義務に違反したことが違法と判断されるのである。要するに、不作為違法確認訴訟においては、当該行政庁の不作為が違法となるか否かの判断は、もつぱら「相当期間」の経過の有無にかかわつているのであり、その意味で「相当期間」の認定が違法判断のメルクマールとなつているのである。

次に、国賠法上の不作為の違法について考えてみるに、不法行為法上、不作為についての違法は作為義務違反の問題としてとらえられ、作為義務の認定が重要な役割を果たす。しかし、本件のごとく不作為違法確認訴訟とパラレルの関係にあるような不作為による不法行為における作為義務は、自動車事故における加害者の救護義務のごとく当該時に作為義務に反して作為に出なかつたのかどうかというような作為義務とは自ずからその性格を異にしている。つまり、加害者(行政庁)による不作為が一定期間継続したこともしくは継続していることは作為義務違反になるかどうかの問題であるから、論理的に言つて、当然、その作為義務については「一定の期間」内に作為に出るべき義務として、作為に出るべき「一定の期間」の認定が前提とされなければならない。したがつて、加害者(行政庁)による作為義務の認定から、本訴における被告らの主張のごとく、作為に出るべき「一定期間」を主張する必要もないし、またできるものでもないというように、「一定期間」という概念を排除してしまえば、結局、本件のごとき場合、加害者(行政庁)の作為義務一般の否定という結果に帰着せざるをえないのである。これは、とうてい許されることではない。

(3) そうすれば、不作為違法確認訴訟における違法とそれとパラレルの関係にある行政庁の不作為に基づく国家賠償請求訴訟における違法とが同一か否かは、右(相当期間」が右「一定期間」と同一であるか否かにかかつてくると考えられる。これについては、右の国賠法上の行政庁の作為に出るべき「一定の期間」を、右「相当期間」と別異に考える何らの理由も見出し難いといわなければならない。行訴法三条五項にいう「相当期間」は、被告らも主張するように「当該処分・裁決の性質、内容に応じ合理的に判断されるべきものであつて、画一的、一義的には決しがたい。」とされるが、要するに、当該申請の根拠法令の立法趣旨等をふまえた解釈により具体的に決せられるものというべきであり、この点において、国賠法の適用においては別の「期間」解釈をなすべき何らの理由もない。逆に、当該法令に基づく申請に関し、行訴法上当該行政庁が処分をなすべき「相当期間」と、国賠法上その期間内に行政庁が作為に出なければ作為義務違反として違法となる「一定期間」とが別の概念として定立しうるとすると、被告らの「相当期間」は特定しえないし、また一定の期間として特定する必要もないとする主張と同じく、当該申請者である国民の地位を著しく不安定ならしめ、当該申請根拠法令の立法趣旨を没却し、法の整合性に著しく欠けるところとなるのである。

(4) 以上、要するに、行訴法三条五項と国賠法一条一項の違法は同一であり、被告らの主張する行政庁(加害者)の主観的事情や申請者(被害者)の態度等は、一定の場合、行政庁の不作為の違法性を阻却する「正当な理由」となり、その余は、国賠法上別の不法行為成立の要件となる行政庁の故意、過失判断の対象として別のレベルの問題となるといわなければならない。なるほど、被告らのいうとおり、近時不法行為法上の一般的論議として、その成立要件としての違法性、故意・過失、損害という三段階構成を再検討しようという動きが一部にあることは認めるが、こと本件のごとき事案においては、その違法性判断は、「相当期間」の認定を媒介として、行政庁の作為義務の明確化と申請者(国民)の法定地位の安定という重要な役割をになつているのであるから、被告らの右「相当期間」を特定せず、かつ様々な事情を違法性判断のレベルに持ち込もうとする言説は、行政庁及び被告ら自らの責任をことさらあいまい化するものとして、到底これを是認することはできないのである。

(5) 仮に百歩譲つて、被告らの主張する事情をすべて違法性判断の際考慮すべきであるとしても、それらはすべて知事の作為義務の措定において考慮される事情もしくはその作為義務違反の違法性を阻却する特別事情としてであつて、被告らのいうように作為義務の措定なしに、直接、無媒介的に違法性判断の資料とすべきものではない。何故なら、作為による不法行為の場合は、その違法性判断につき依拠すべき実体法が通常明らかであるのに対し、不作為による不法行為の場合は、通常依拠すべき実体法がなく、そのかわりに作為義務が措定されてその違反の有無が問われることになるからである。つまり作為義務の否定されるところに不作為による不法行為は存在しない。被告らはこの作為義務の措定されることを避けようとしているのである。

以上のとおり、被告らの知事に不作為の違法性がないとの主張は、「相当期間」を特定せず、自らはその作為義務を明らかにしないでしている主張であるから、主張自体失当というべきものである。

仮に、主張自体が失当でないとしても、後記(二)の(3)で述べるとおり、右主観的事情等はすべて理由がないから、これらを「相当期間」認定の斟酌事由とすることはできない。

(二) 被告らは、また、前記違法性判断の要素として掲げた諸事情の存在する本件においては、本件不作為は違法ではないし、仮に、知事の不作為に違法性があると認められても、責任はないと主張するので、以下に反論する。

(1) 被告らの主張するところは、早急な処分の困難性として①医学的判断の困難性、②申請者の増加と検診・審査能力の限界、③過去における検診・審査業務の停止、原告らの検診拒否等、そのほか、④認定業務促進のための努力、⑤早急な処分が困難なための医療救済策である。しかし、右のうち①、②は行政自らの責任に外在する、いわば行政の救済姿勢と縁由をもたない事情として主張されている。③についてはやはり原告ら申請者(被害者)側の一方的阻止行動として、行政の患者故済姿勢とは無関係なものとして主張されている。④、⑤については、認定業務の遅滞に対するいわば行政の自己弁護の主張であるが、右の遅滞がいわばのつぴきならぬものとして現実化しつつあつた昭和四八年七月以降の事柄についてのみしか触れられていない。

水俣病患者発生の最初の公式確認は、昭和三一年五月一日、今から実に二六年以上も前のことである。この二六年を経て、いまだに水俣病患者が一体何人いるものか不明、かつ環境汚染を媒介にした有機水銀の人体に対する影響の全ぼうは未解明のままである。行政に対し水俣病患者としての確認を求める者が、いまだに五〇〇〇人近くもおり、行政が何時そのすべての被害確認の作業を終了するかはつきりした見通しもない。この現実からしても、行政は一体これまで何をしてきたのかと疑問を示すのが当然である。

水俣病の歴史とは、また患者放置の歴史でもある。被告が自らに外在的事情として主張する右①、②は、逆に過去および現在の行政の患者救済の姿勢の欠如にそのしつかりした根をもつている。③も、そもそもが行政の患者切り捨ての姿勢に由来する。④、⑤についても、それは、それまで行政が何もしてこなかつた歴史の裏返しであり、かつ、患者らが運動によつて切り開いてきた状況を後追いして、あるいはそれに逆行せんとして出てきた施策に過ぎない。行政は過去一度たりとも自ら進んで患者救済に対し主体的な姿勢を示したことはなかつた。

(2) そこで、以下にまず右患者放置の歴史を五期に分けて論述する。

第一期(昭和三一年より昭和四三年まで)

① 水俣病発生の公式確認は、昭和三一年五月、新日窒(現在のチッソ)病院が、水俣保健所に脳症状を主症状とする類例がない疾患発生と報告したことによる。そして、同月中に現地に水俣市奇病対策委員会が結成され、同年八月には、熊大医学部水俣奇病研究班が組織される。そして右奇病対策委員会は同年中に五二名(死亡一七名)を水俣病と決定し、昭和三二年中に一二名(死亡三名)を、昭和三三年に四名を水俣病と決定、また同年九月の水俣工場の排水口変更に伴い昭和三四年九月二三日水俣市の北津奈木村(現津奈木町)に患者発生が確認され、同年中に同村で四名、また津奈木村の北芦北町で本件原告緒方の父緒方福松の水俣病による死亡が解剖により確認されたことを含め同年中に合計一一名(うち死亡四名)を水俣病と決定している。以上のとおり、昭和三四年までに、合計七九名の水俣病患者が公式に確認された。

② 一方、水俣病の原因究明については、厚生省厚生科学研究班が、昭和三三年七月「水俣奇病の原因は新日窒の廃棄物」と推定との結論を出したのをはじめ、昭和三四年七月には、熊大研究班が有機水銀説をうち出している。そして、この有機水銀説は、熊大研究班により次第にあらゆる方面から根拠づけられていき、昭和三八年二月の発表では、水俣病の発生機序はほぼ余すところなく解明され根拠づけられ、世良研究班長をして「原因究明のわれわれの研究はすでに頂上に達している」と言わしめるまでになつた。ところが、この熊大研究班の成果を政府が正式にとり入れたのは、右熊大の発表から実に五年以上後の昭和四三年九月二六日のいわゆる水俣病の政府公害認定がはじめてである。水俣病の公式確認から実に一三年目のことであつた。この間行政は水俣病の原因についてあえてあいまいなままに放置する姿勢をとり続け、それについて「中央の権威」=御用医学者を最大限利用したのであつた。

③ 水俣病の原因究明においてすら行政の姿勢は右のとおりであつたのであるから、水俣病患者の積極的発掘、有機水銀による汚染地域の住民検診などは、まして思いもよらぬことであつたろう。水俣病発生の公式確認以来政府公害認定までの間に、行政において右のことが問題にされた形跡すらない。一方昭和三四年一二月には、正式な水俣病患者の確認機関として、厚生省所管の水俣病患者診査協議会が設置された(これが現在も続いている水俣病患者認定制度のはじまりであり、かつ同月三〇日の、後に熊本地裁から公序良俗違反と判断されたいわゆる「見舞金契約」の成立と関連づけられて設置されたもので、右認定機関は、当初からチッソによる補償金受給者決定機関としての性格を負わされていたものである。)。そして、右診査協議会は、昭和三六年九月、熊本県衛生部に所管がえされ、水俣病患者診査会として再編される。更に、昭和三九年二月には、熊本県議会での「水俣病患者審査会設置条例」の可決に伴い、それに基づく水俣病患者審査会として編成がえされる。この審査会が、昭和四四年一二月の「救済法」に基づく熊本県公害被害者認定審査会へとつながるのである。

そして、右認定機関が認定したのが、昭和三五年に水俣病八人、鹿児島県三人の計十一人、昭和三六年に熊本県二人、昭和三七年熊本県胎児性水俣病患者の一六人、昭和三八年ゼロ、昭和三九年熊本県六人、鹿児島県二人合計八人、昭和四〇年ゼロ、昭和四一年ゼロ、昭和四二年ゼロ、昭和四三年ゼロであつた。昭和三九年以降の審査会は開店休業の状態に等しい。以上、昭和三一年五月の水俣病患者公式以来昭和四三年までの一二年半の間に、行政により確認された水俣病患者はわずか熊本県一一一人、鹿児島県五人の計一一六人にすぎないのである。

ところで現在の両県の認定患者熊本県一五一六人、鹿児島県三二一人と右の数値との落差は何を物語るのであろうか。現在の認定患者のほとんどすべてがすでに昭和四三年頃までに発症していたにかかわらずである。昭和四三年までの水俣病の歴史をもつて、患者置き去りの歴史という以外どのような表現の仕方があろうか。この一二年半に亘る長い放置期間に、もし行政が綿密で本格的な住民健康調査を行つていたとしたら、その後の水俣病の歴史は大きく違つていたことは否定できないであろう。

④ もつとも、右に類した二つの調査が行われたことがある。ひとつは徳臣晴比古ら熊本第一内科によつて昭和三五年夏に行われた患者多発地区住民検診である。その結果は、昭和三八年三月学会誌に発表されたが、対象人員一一五二人のうち発見された患者がわずかに三人という信じがたいものであつた。その三人も軽症であり「本人の申し出がなかつたので」認定は受けていないという。徳臣らは右の結果に基づき、昭和三五年までで患者発生は終息と結論づけた。当時の熊大研究陣が、中央の「権威」に名を借りた有機水銀説に対する反論に対処するため、有機水銀中毒の典型例としての「ハンター・ラッセル症候群」を完全にそろえた患者だけにしぼろうとした姿勢のあらわれとも思えるが、ここに「二八年発生、三五年終息、臨床症状としてハンター・ラッセル症候群をそろえる者」という水俣病のドグマが完成したのである。これが昭和四六年に打破られるまで審査会を完全に支配した。

もうひとつは、熊本県衛生研究所による「水俣病に関する毛髪中の水銀量の調査」である。この調査は不知火海周辺市町村と対照地区として熊本市などの住民の毛髪水銀量を昭和三五年より昭和三七年まで三次にわたり調査したものであるが、御所浦町に最高九二〇PPMを記録した人をはじめ、不知火海沿岸市町村住民に要注意指標である五〇PPMを超える数値を記録した人が多数みられたにもかかわらず、右調査は何ら住民の健康調査など一歩踏み込んだ調査へ進むことなく打ち切られ、その個人的データーは本人に何ら通知されないばかりか、一切公表すらされなかつた。つまり、右の調査結果はその後患者の認定にはもちろん、調査、研究にもまつたく生かされないまま終つたのである。

⑤ 昭和四〇年五月、新潟水俣病の発生が公式に確認された。これに対し新潟県と新潟大学は早くも翌六月には、阿賀野川下流患者発生地区全住民四一二戸二八一三名を対象に第一次一斉検診を、また、周辺地区三八四九戸一万九八八八名を対象に戸別訪問による健康調査を行つている。そこで発見された患者と要注意者についてはその後も追跡検診が行われ、昭和四四年一二月には、遅発性水俣病の存在が発表され、その研究成果から、昭和四五年一〇月からは第二次一斉検診が対象を広げて阿賀野川上、中流を含めた一万一九〇四名について行われた。以上のとおり、新潟県の場合、水俣病発生の公式確認後直ちに行政は患者発掘と住民健康調査に積極的なとりくみをみせたといえる。新潟県の場合、右の調査を基礎として認定業務の運用その他の行政的施策が計られ、また病像の把握も「ハンター・ラッセル症候群」にとらわれることなく、実態を重視し、その中から構築されていつている。「遅発性水俣病の発見」がそのよい例である。

かかる方法は、熊本県の場合、ここで述べている一二年間ではもちろん、今日まで行政の手で積極的にとられたことはただの一度もない。熊本県は昭和四六年から昭和四九年にかけて一斉検診を行つてはいるが、その時期と方法と成果において極めて疑問が多いことは後に述べるとおりであり、右新潟県における成果に比せられるものではない。熊本県の場合、新潟県と比較して、その汚染の広がりと深さにおいて数段深刻である。であるからこそ、行政としても新潟県に数倍する努力を重ねなければならなかつたのである。しかし、実際には熊本県の取り組みは、新潟県に比して完全な遅れをとつた。その結果、病像は実態を踏まえた上で構築されず、昭和四六年まで一五年の長きにわたつて、先に述べた水俣病の発生時期と症状のドグマが支配し、救済の門戸が著しく狭められたばかりか、認定業務を含めた行政の施策が実態に即応したものとして構築されず、救済法が制定されてから一三年を経た今日でさえ行政をして「申請者が増えてびつくりした。これでは専門医の数も足りないし、お手上げだ」と言わしめる始末となつているのである。すなわち、昭和四三年まで行政が患者発掘と救済に対し無策であり、一度も一斉検診などの方法により有機水銀汚染の実態把握がされなかつたことは、行政の義務の懈怠であり、その後の救済法による認定業務の運用にも大きな影響を与えていることは否定しようがないものである。

第二期(昭和四四年より昭和四六年まで)

① この時期は、新潟水俣病の発生と新潟県、新潟大学等のそれに対する取り組み、新潟水俣病患者の昭和電工に対する訴訟提起(昭和四二年六月一二日)等の運動に触発されて、一度は「終わつた」とされた熊本水俣病が見直され始めた時期であり、昭和三九年から昭和四二年までまつたく途絶えていた水俣病患者の認定申請が高まりをみせはじめ、また行政不服審査請求等の運動により病像のドグマが打ち破られていつた時期である。昭和四四年六月一四日には熊本水俣病第一次訴訟が提起されている。

まず、同年五月三〇日には熊大病理学教室の武内忠男教授により、「不顕性水俣病」の存在が発表され、汚染地区の一斉検診、総検診による汚染実態の見直しが社会的に指摘しはじめられる。同年六月五日には、水俣病訴訟支援、公害をなくす県民会議が熊本県知事に対し、①芦北・水俣地区住民一斉検診②定期検診の設定③認定基準の再検討が申し入れられている。これに対し、伊藤蓮雄熊本県衛生部長は、県議会の席上、熊本県の方針として、「一斉検診は技術的に不可能で意味なし、申請すれば審査、門戸は開かれている。不顕性水俣病を患者とみることは疑問」と発言している。

なお、昭和四四年一二月には救済法が公布され、直ちに同法に基づく「熊本県・鹿児島県公害被害者認定審査会」(いわゆる第1期審査会、徳臣晴比古会長)が発足している。この時点での既認定患者は熊本、鹿児島両県で一二一名、昭和三九年の数より五名増えたにすぎない。更に、翌昭和四五年二月一九日には、右審査会の発足に伴い前記県民会議及び水俣病対策市民会議代表らが熊本県に対し、①認定基準の改善②要観察制度の設置③一斉検診の実施④死亡者の認定について陳情している。これに対し、第二回審査会は、①認定は補償と関連があるので慎重に②不顕性は患者と取扱わぬなどと確認し、認定基準を決定している。これらの申し合わせ、認定基準は秘密扱いされ、昭和四六年五月二六日に至つてこれが暴露されるのである。

この間、昭和四五年八月一八日には、川本輝夫ら九人が熊本県、鹿児島県の認定棄却処分を不服として厚生大臣に行政不服審査請求を提起している。また昭和四六年四月一一日には、水俣病研究会の手により、昭和三五年から昭和三七年にかけて熊本県衛生研究所が実施した不知火海沿岸住民の毛髪水銀量検査報告原簿(個人データー)が発見され、右調査を全く生かすことのなかつた熊本県の怠慢が指摘されている。昭和四五年二月一日の救済法施行以来、第一期審査会は「二八年発生、三五年終息、症状はハンター・ラッセル症候群」のドグマそのままで運用されていたが、うち「二八年発生、三五年終息説」は、昭和四六年四月二二日の第五回審査会における一三人の大量認定によりようやく打ち破られ、「ハンター・ラッセル症候群」のドグマは、昭和四六年八月七日の環境庁(同年七月一日発足)の右川本らの審査請求に対する裁決によつて打ち破られた。

水俣病の完全な見直しを迫る患者らの運動に対し、先にこれに答えようとしたのは熊本県行政でも審査会でもなく、熊大の医学者であり、そしてまた外国の医学者であつた。昭和四六年三月には熊大医学部で一〇年後の水俣病研究班(いわゆる第二次研究班)発足の打合わせが行われている。このように患者、支援団体の追及と医学者の立ち上りに四面楚歌となつた熊本県行政が、ようやく微妙な変化を見せはじめるのである。同年五月二七日、当時の沢田熊本県知事は県議会で「一斉検診は考えていない」と答弁しながら、同月二九日には同じ県議会で伊藤衛生部長が「必要ならば一斉検診」と態度を変えはじめているのである。

② 右に述べた「不顕性水俣病」の発見、更に新潟大学の白川健一の遅発性水俣病の発見により、昭和四四年段階において、水俣病像把握のためにも行政の患者救済の施策確立のためにも、水俣、芦北地区を含む不知火海沿岸住民の一斉検診、総検診を遂行して、その実態を踏まえた病像把握と施策確立をすることが必要であることは、社会的に明確にされ、これまでの水俣病に対する熊本県行政の無策が明白に指摘されるようになつたことは否定しようがない。にもかかわらず、右の昭和四六年八月の裁決まで、被告国、県は具体的に何らの施策もとらなかつた。昭和四四年でも決して遅くはなかつたのである。このころ新潟県が既にやつていた汚染地区全住民の一斉検診を、熊本県が新潟県の汚染の数倍の規模であるならその数倍の規模で行い、積極的に患者を発掘し、また要注意者を追跡する体制を確立していたのなら、また今日の認定業務遅滞状況も一変していたであろう。第一に、綿密で周到な一斉検診ならば水俣病にまつわる差別の除去に役立ち、健康に対する注意を喚起して申請に対する関心を高め、少なくとも昭和四八年以降に急激に申請が増大するということはなかつたであろう。また、その気さえあれば、汚染の深刻さ、潜在患者の多さが早くわかり、それに対応する施策の確立も早期になし得たであろうことは否定できないところである。また、有機水銀による健康障害の実態に即応した極めて軽症の例も含めた病像の確立も早期になし得たにちがいない。更に行政に対する水俣病患者らの不信の醸成も現在のごとき深刻なものとはならなかつたであろう。

この時期における申請並びに処分等の状況は次のとおりである。昭和四四年申請二〇件、認定五、保留二、棄却一三件。昭和四五年申請一〇二、認定五、保留一五、棄却二件。昭和四六年申請一六七、認定五八、保留六、棄却一件(以上熊本県関係のみ)。以上のとおり昭和四六年のドグマ打破により、認定数が極めて増加している。

第三期(昭和四六年より昭和四八年まで)

① 昭和四六年八月七日の差戻裁決後、同年九月三日、徳臣会長ら審査会委員七名が辞意を表明した。昭和三八年に論文を発表し、「二八年発生三五年終息、症状はハンター・ラッセル症候群」ドグマを確立した徳臣会長とその同調者とが右差戻裁決により辞意を表明することはむしろ当然のことであつた。しかし、行政はこれに対し慰留した。しかし、また、時代は水俣病を見直し広く認定救済する方向に大きく動いていた。昭和四七年四月には不顕性水俣病の発見者であり、いわゆる二次研究班の中心メンバーである武内忠男教授が会長となり、第二期審査会により水俣病患者の認定・救済は一応の前進をみた。認定患者は急速に増大し、一方救済のワクが広がつたことにより申請者は増え続け、昭和四八年三月二〇日の一次訴訟判決で原告患者が勝訴し、同年七月九日のチッソとの補償協定書調印によつて補償体系が確立したことにより、昭和四八年申請者数の増加はピークをむかえ、これに対する行政の対応の遅れが社会問題化することになつたのである。

昭和四七年の申請は四三九、認定一五四、保留三三、棄却一〇。認定患者累計三二八、申請累計七〇八、未処分数四一一。昭和四八年は申請一九三四、認定二九八、保留一六〇、棄却四二、認定患者累計六二六、申請累計二六四二、未処分二〇〇七である。

② 一方汚染実態調査の方は、熊大二次研究班により住民健康調査が昭和四六年八月より九月にかけて行われ、御所浦町嵐口地区一八七一人、水俣市湯堂、出月、月ノ浦一一一九人、対照地区として天草郡有明町の一一八〇人が検診を受けた。そしてその結果が昭和四七年三月から四月にかけて公表された。結果は、水俣市分が一一一九人中二五一人が水俣病の疑いが濃い要精密検査者(ほぼ五人に一人)、御所浦町分が一八七一人中七九人が要精密検査者ということであつた。右時点では、申請累計三五八、認定患者は一七四名にすぎなかつたが、右調査結果に基づき「認定患者は四ケタに」なるという推測が立てられたりした。

また熊本県もようやく独自にまず、水俣湾周辺住民五万五七七六人を対象に住民検診アンケート調査、漁業世帯は面接調査を昭和四六年一〇月五日から一一月一日まで行い、昭和四七年七月七日から三月一五日にかけて地元医師らの診察で住民健康調査第二次検診を行つた。しかし、右第一次調査結果による第二次検診対象者は一万一七八四人であるにかかわらず、実際に受診したのは四四一九人、受診率36.8%という低さであつた。そして四四一九人のうち一一二三人(25.4%)が要精密検診(三次検診)対象者となつた。そして昭和四七年六月二四日から熊大第一内科と地元医師の協力で精密検診が実施された。また、右の第二次検診の受診率のあまりの低さから補完第二次検診を昭和四八年四月二〇日までに行い、受診者一一九四人中要精密検診者四七〇人(39.4%)となつた。それでも合計の二次検診受診者は五〇%に満たない。更に、精密検査(三次検診)の結果はそれから二年後、一次のアンケート調査から四年後の昭和五〇年八月二八日にようやく発表され、対象者一五九三人のうち受診者一二三四人(77.5%)、要審査者一五八人、要管理者(水俣病の疑い)三九八人とされた。しかし、右要審査者のうち一一四人は既に認定ずみ、残り四四人のうちの三〇人は認定申請中であり、要管理者のうち四人は既に認定ずみ、一九二人は申請中のものであり、熊本県の調査があまりにもスローモーだつたことのみ批判され、結局何の成果も引き出せない無内容なものとして終了した。

熊本県の右の一斉検診の欠陥を集約すれば次のとおりとなる。第一に、調査対象から水俣・芦北地区のうち沿岸部以外の住民が抜け落ちている。水俣・芦北地区沿岸部以外でも有機水銀に汚染された不知火海の魚介類を摂食して水俣病に罹患した者がいることは既に知られており、水俣病は昭和五〇年七月から、津奈木町は同年八月からこれらいわゆる山間部住民の検診をしている。その結果、水俣市の場合、六五五七人のうち一七〇七人(二六%)が要二次検診者、そのうち一一五四人が二次検診を受診して二一六人が水俣病の疑いとされている。津奈木町の場合、五三九人(対象者の35.23%)が要二次検診、うち三四一人が受診し、水俣病の疑い八一人、また田浦町での同種調査では五六〇人(二〇%)が要二次検診とされている。熊本県の一斉検診ではこれら山間部の調査がすつぽり抜け落ちている。第二に、二次検診の受診率が極めて低く五〇%を割つていた(47.6%)ことである。県行政に対する住民の不信を思つて余りあるが、右水俣市、津奈木町の二次検診受診率が約六八%と六三%であることと比較しても、その低率さは極端である。第三に時間がかかりすぎたことである。昭和四六年一〇月ようやく重すぎた腰を上げたのはいいが、それから四年後の昭和五〇年八月にようやく結果発表に至つた。本件のごとき健康調査の目的はその結果を基に行政施策をたてていくこと、また未だ認定申請に至つていない水俣病の疑をもつ者を認定申請に導くことにあるというものであろう。ところが、その結果が判明したのは既に認定業務遅滞の泥沼に完全にはまつてしまつた後であり、かつ水俣病の疑いを持つとされた者の大半は認定ずみか申請ずみというのでは何の意味もない。つまり熊本県の一斉検診は認定業務の促進という面からも何の意味もないものだつたのである。

③ この時期、すなわち昭和四七年四月の第二期審査会発足の時点で、認定業務の遅滞はすでに目立つており(当時申請累計三五八、未処分二二五)、かつ熊大二次研究班の調査結果も出て、将来認定患者が一〇〇〇名をこえるかもしれないとの予測も立つていたのであるから、行政は少なくとも右の時点で今日の事態を当然予測し、認定業務を含めた施策の確立を急がねばならなかつたものである。ところが実際に行政がとつた施策は、それまでの二か月に一回一日三〇人程度の審査数を二か月に一回二日間六〇人審査と改めた程度である。その他同年五月に検診方法などの一部簡略化を決め、昭和四八年一月に、更に熊大二次研究班、熊本県の実施した検診の精密検査資料を審査に利用するなどの改善を加えた、いわば小手先だけのものに止まつたのである。この行政の小手先だけの対応は昭和四八年以降完全な破産に頻するのである。

第四期(昭和四九年から昭和五一年まで)

① 第二期武内審査会は、それまでにない数の大量の患者を認定した。武内審査会時代(昭和四七年四月〜昭和四九年四月)の審査回数一二回、認定件数は五二五件(審査数の六一%)、保留二六七(三一%)、棄却七四(八%)である。第一期徳臣審査会(昭和四五年一月〜昭和四七年一月)の審査回数四回、認定六三(七二%)、保留二一(二四%)、棄却三(四%)と比べると極めて大きな前進ということができる。しかし昭和四八年の認定申請件数は一九三四件、昭和四八年末の末処分累計は二〇〇七件となつて、右の武内審査会の成果もかすむほどの現実となつて立ち現われた。昭和四八年七月の補償協定成立により水俣病患者の補償体系は完成し、水俣病問題は補償問題から認定患者の問題へと転換し、患者らの追及はチッソから行政へと向かうことになつた。そして、この未認定問題は昭和四九年において極めて大きな社会問題化したのである。

行政は、それまでの水俣病施策の立ち遅れを指摘され、窮地に追い込まれ、それに対する抜本的対策を余儀なくされた。そして、行政がとつた方法が、昭和四九年四月より一〇月までの審査会の空白であり、第二期武内審査会長の追い落しであり、デタラメ集中検診であつた。つまり、認定業務遅滞に対する抜本的対策をどうしてもとらざるを得なくなるまで追い込まれた末に行政がとつたのは、認定業務促進の名のもとに患者救済とは逆行する「患者切捨て施策」だつたのである。ちなみに、この時期の審査会として第三期審査会(昭和四九年一一月〜昭和五一年一〇月、会長大橋登水俣市立病院長)の審査結果は次のごときものとなつた。審査回数一七回、認定二一八(二〇%)、保留八一〇(七四%)、棄却六一(六%)であり、審査回数と件数こそ第二期審査会よりも増えているものの、保留件数の極端な増加により処分数は大きく落ち込み(二七九件)、第二期審査会(処分数五九九件)の半数以下と大きく後退したのである。第二期審査会が審査の対象としたのは、申請数と審査数との比較からほぼ昭和四七年までの申請分と昭和四八年申請分の一部であつたと推測できる。第三期審査会が対象としたのはほぼ昭和四八年申請分である。しかし申請は別に症状をそろえた順になされている訳ではないので、右の第二期審査会が対象とした患者と第三期審査会が対象とした患者に右の数値に出ているほどその診断の困難性に差があつたとは到底思えない。変わつたのは審査会なのである。

水俣病認定申請患者協議会の申請患者らは、第三期審査会の構成を問題にし、「切捨て審査会となるだろう」と危惧を示しているが、右の数字に明白にあらわれているようにこの指摘は当つていたのである。

② 被告国と被告県の委託による「水俣病認定業務促進検討委員会」は昭和四九年二月二二日発足し、集中検診を計画し、被告県は同年七、八月の二か月に亘りこれを実施した。集中検診の実績は神経内科四三五、耳鼻科四一五、眼科三六四であつたという。この集中検診は患者らが「デタラメ集中検診」と呼んだように極めて問題のある検診であつた。第一に、検診医の質である。検診医は広く九州一円、九大・久留米大、鹿大・長崎大それに熊本、福岡両国立病院から派遣された。これら検診医は、それまでに水俣病の検診に従事したことがなく、また一部は検診医としての事前研修に参加しない者もいたのである。第二に、検診態度である。検診方法として不必要に苦痛を伴う方法がとられ、また検診態度は受診者の申出を頭から疑つてかかろうという態度であつたという。

このようなデタラメな集中検診と審査会不在とから、行政が「患者切捨て施策」を推し進めようとしていると感じ取つた申請患者らは、同年八月一日「水俣病認定申請患者協議会」(会長岩本広喜)を結成するに至る。そしてこの申請協が中心となつて、被告県等に対し、①集中検診のズサンな実態を訴え、抗議し、②医師名公表を迫り、③診断書発給取次を要求するなどの運動をした。被告らは、これら申請協による反対運動により検診業務を昭和五一年三月まで停止せざるを得なかつた旨主張するが、申請者は当初から従来どおり熊大を中心とする医師による検診を求めていたことは明らかだつたのであり、また被告県も集中検診が「一部不適切」だつたことを認め、被告国も集中検診に問題があることを認めていたのであるから、早急に従来の熊大を中心とした検診体制に戻して実施し、可能な限りそれを強化していく方向をとればよかつたのである。申請協等による集中検診に対する反対運動で昭和五一年三月までも検診を停止させなければならない必然性は全くない。

③ 一方、審査会の方は、まず、前記促進検討委員会の人選等について昭和四九年四月一一日熊本県議会公害対策特別委員会で疑問が示されたが同年六月七日の環境庁健康調査分科会で有明町の患者がシロ判定され、熊大二次研究班の研究成果が否定され、その中心メンバーだつた武内忠男教授が第三期審査会からはずされる方向性が決定的となつていつた。この方向性と集中検診に疑問を持つた同じく二次研究班の主要メンバーである精神神経科の立津政順教授は、同年八月二〇日沢田知事に「精神神経教室では引き受け手がない」と第三期審査会委員会の推選依頼について回答し、これを拒否した。立津教授は、集中検診に対する批判のひとつとして「水俣病の解決にはかなりの時間と労力がかかる。そこで、水俣病を診断できる医師の育成を大切なことだと考え、患者を診ることのできる教室員を今までに二〇人ほど育ててきている。……診断できる医師が地元にいるのによそから連れてくるのは理解できない。」と語つており、本件における被告の専門医の不足等の主張と明らかに矛盾している。しかし、沢田知事は、同年二八日第三期審査会を一人欠員のまま(ということは、熊大精神神経科の委員の加入なしで)発足と発表し、同年一一月一日発足させ、一一月八日第三期審査会の第一回会合が持たれたのである。

つまり、新しい水俣病像の把握と認定救済に尽力した熊大二次研究班メンバーは、第三期審査委員から完全に除外された。四月から一〇月まで七か月の審査会空白の末、二次研究班メンバーの除外で発足という第三期審査会を、申請協は「切捨てのための審査会」と考え反対運動を行つた。審査会発足の経過をみ、その審査会の審査結果をみるとき、申請協等の危惧は否定しようがないのである。被告県は結局、これら申請協の危惧を納得せしめる何らの具体的施策も立てないまま見切り発車しようとした誤りを犯しているのである。

④ 認定業務遅滞の状況が極めて深刻となつたこの時期、これに対する追求は、昭和四九年三月一三日、認定申請者八木シズ子らのチッソに対する正式認定までの毎月の医療・生活費支払の仮処分申請として始まつた。結局、右仮処分申請は同年六月二七日一部認容され、チッソに補償協定に基づく医療費の支給と月二万円の栄養費等の支給が命じられた。

次に、同年七月一六日、第一次一七九人による知事の不作為に対する違法確認の行政不服審査請求が出され、八月一七日には、二次分三六四人の、九月一九日には、三次分一〇七人の右請求が出された。右請求に対し、環境庁は、同年九月二〇日右一次分のうち一六人について請求を認容し、一〇月二四日には一次分残り二人分について認容、一五二人分を棄却した。結局、審査資料がそろつているのに審査、処分をしていない分についてのみ認め、検診未了等の分についてはすべて棄却したのである。結局、認定業務遅滞の現状を追認したものでしかなかつた。そこで、申請患者らは、同年一二月一三日不作為訴訟に踏み切り、昭和五一年一二月一五日勝訴の判決を得たのであつた。

右提訴のあつた昭和四九年末時点での申請累計三四五三、未処分累計二七二五、認定患者計六九九。判決のあつた昭和五一年末時点での申請累計四六一三、未処分累計三五四二、認定患者計九二八、昭和四八年申請分でさえまだ全部の審査を終えられない状況であり、認定業務の遅滞はなお一層深刻なものとなつていたのである。

第五期(昭和五二年以降)

① 昭和五一年一二月一五日不作為判決が下つた。これに対し知事は控訴を断念し、判決に服することとなつた。不作為判決は確定し、その判定の拘束力により、知事は不作為訴訟原告ら申請患者に対して早急に処分をなす義務を負うことになり、本件被告国、県も水俣病認定業務に関し抜本的対策を迫られることになつたことはもちろんである。

この時点で被告県がまず最初に声高に打ち出した見解が、「認定業務は一県の能力を超える。直接国で処理せよ。」であつた。右の見解はそれまでも何度か発表されてきてはいたが、不作為訴訟敗訴により数段声高になり、熊本県議会も「認定業務機関委任事務返上決議」までして被告県を支援したのであつた。そして、これに答えるようにして被告国から昭和五二年六、七月出て来たのが、①機関委任事務としての制度維持、②「一五〇人検診、一二〇人審査体制、昭和五五年度中に全申請者処理」、③「後天性水俣病の判断条件」の基本三方針であつた。被告県と被告国との間の責任のなすり合い、責任回避のキャッチボールはなおも続く。昭和五三年になつて、被告国が被告県に「チッソ支援県債発行」を押しつけようとし、被告県があくまで「認定業務は直接国で」を主張する。その政治的かけひきの結果、昭和五三年六、七月結着をみたのが①被告県の「チッソ県債発行」引受、被告国の保証、②新次官通知、③国の審査会設置である。不作為判決後、認定業務の抜本的改革の呼び声の結果出て来たのは以上ですべてである。医学者などからも度々指摘され、また水俣病患者らも不作為判決前において何度も要求している、水俣病の総合的な実態調査にはまだ全く手がつけられていない。

② 被告らは、不作為判決前後を通じて最大限の行政努力を払つてきたといい、本件訴訟外でも、不作為の違法は認めながら最大限の努力は払つてきたと言つている。しかし、これまで述べてきたように、逆に水俣病の歴史とは行政の怠慢の歴史だつたのである。このことは、常駐医六名が必要であると認識しながら、未だに一名しか置き得ていないことからも歴然としている。被告国も県もついぞ積極的に水俣病専門医、研究者を養成したことはない。ところで、被告県は、昭和四四年から昭和五三年までの一〇年間に認定業務の事務費として五億八〇五九万九〇〇〇円を、検診施設整備費として三億七四七二万八〇〇〇円を、熊大調査研究委託費として三七五五万円を、医療費等として六億四五三八万五〇〇〇円、合計金一六億三八二六万二〇〇〇円を支出しているが、これが水俣病患者救済のために一〇年間に亘り支出したすべてである。

しかし、水俣病の加害者であるチッソ支援のための県債による貸付金第一回(昭和五三年一二月二七日)三三億五〇〇〇万円、第二回(昭和五四年七月六日)二二億二〇〇〇万円、第三回(昭和五四年一二月二六日)二二億九一〇〇万円、第四回(昭和五五年七月二五日)二五億一三〇〇万円、第五回(昭和五五年一二月二六日)二三億四八〇〇万円、合計金一九〇億一三〇〇万円、これがこの五年間チッソに支払われた金である。また、昭和四九年度にはじまつた水俣湾ヘドロ処理事業は、昭和六四年度までに総事業費四三〇億円が見込まれ、うちチッソ負担分二八〇億円、被告国、県の負担分が一五〇億円である。また、右事業に伴い昭和五六年度までにチッソが負担すべき七〇億円は、チッソに支払能力がないため右貸付金一九〇億円とは別に熊本県が県債発行により立替えているという。

これでは、余りに患者救済に薄く、加害者チッソ支援とヘドロ処理の土木工事に厚すぎる。ヘドロ工事が本当に水俣病の有機水銀汚染物質の完全除去による水俣病発生防止にその主目的があるとするなら、それと同じ金が何故二〇万人が周辺に居住する汚染された不知火海の完全な汚染実態把握と患者の完全救済に費されないのであろう。

③ さて、申請患者らは、不作為判決で勝訴したことにより、被告国、県による認定業務の抜本的改革に期待した。裁判で敗けるようなことでもなければ行政は自ら動こうとはしない。確かに、被告ら行政は「一五〇人検診、一二〇ないし一三〇人審査体制」を打ち出した。不作為訴訟では「八〇人審査が精一杯」と主張していたにもかかわらずである。しかし、行政は、不作為判決敗訴を救済促進には結びつけず切捨て促進に結びつけ、一挙に水俣病を終わらせようと目論みた。なぜなら滞留申請者を全部棄却してしまえば、行政にとつての水俣病は終わるからである。行政にとつて水俣病とは認定業務事務以上の意味を持たない。「一五〇人検診、一二〇人〜一三〇人審査体制」は、「後天性水俣病の判断条件」、「五三年新次官通知」と結びついている。おまけに、棄却されることをお急ぎの方は国の審査会の方へどうぞということにもなる。

新次官通知のいう「蓋然性の高いこと」とは一定以上の症状の組合わせのあることということである。これは、第一期徳臣審査会のドグマに代わるドグマである。審査会とはもはや有機水銀の影響による健康障害があるか否かを審査するところではなく、一定以上の症状のそろい方があるか否かを見るところである。感覚障害のみしかない場合、理論的にはそのような水俣病の症状の出方もあるのである。しかし、審査会はそれが何から来ているか、有機水銀の影響によるものかを調べることはしないという。疫学的に極めて高度の有機水銀汚染を受けていることが認められても、症状がひとつでは「確からしい」=蓋然性が高いとは言えないとする考え方であろう。しかしそれでは医学の否定である。審査委員はその医学的良心を捨てて基準に合うか合わないかを決める行政官になり下つている。行政が医学をとり込んでねじ曲げている。熊本地裁における水俣病二次訴訟判決は右のごとき審査会に対する痛烈な批判である。五三年の新次官通知は四六年の次官通知から明らかな後退を見せている。

すでに述べたとおり、第三期審査会は「保留審査会」として第二期審査会からの後退が特徴づけられる。第四期審査会(昭和五一年一一月一日〜昭和五三年一〇月三一日、会長三嶋功水俣市立病院長)は、まだほぼ右の「保留審査会」を引き継いでいた。右時期における知事の処分は、認定三一一(一七%)棄却三三二(一八%)保留一一八八(五六%)。ところが新次官通知がほぼ定着した続く第五期審査会(昭和五三年一一月一日〜昭和五五年一〇月三一日、会長三嶋功)では様相が一変する。認定一八〇(七%)棄却一三五九(五三%)保留一〇七三(四〇%)と「棄却審査会」となつた。第六期審査会(昭和五五年一一月〜昭和五六年四月)では、認定二九(四%)棄却四九八(六六%)保留二二三(三〇%)とその傾向はさらに強まり、この認定率は現在まで変わらない。もう死後解剖で病変が顕著な形で発見される事でもない限り認定を受けるのはむずかしく、生存者の認定はよほどのことがない限りされていない。

かかる状況のなかで、本件原告ら申請患者の多くが「検診拒否」をはじめたのである。「座して棄却を待つより」と、待つだけ待たされたうえもはや棄却による切捨てしか予想されない行政の対処に、痛烈な拒否の姿勢による再度の態度変換を迫るためにである。このように、本件原告らにとつて、不作為判決はこともあろうに強烈なしつぺ返しとしてはね返つて来たのである。

(3) そこで、次に被告らの主張する個々の事情について反論するに、まず、①医学的判断の困難性については、前段に述べたとおり、これは根本的には水俣病発生以来二六年にわたり行政がその積極的な医学的解明を怠つてきたことに由来するものであるが、これをさて措いても医学的「判断」という用語の中に「診断」と「認定判断」とを故意に混同させているむきがある。「認定」は医学的な「診断」とは異なり行政上の概念である。医学的な「診断」の問題に関していえば、水俣病に関する医学的なとらえ方の違いから「診断」が異なつてくることは当然あり得る。例えば、熊本水俣病第二次訴訟における椿忠雄鑑定人と原田正純鑑定人の各「診断」の大きなくい違いに明瞭にあらわれている。そのくい違いを前提にしながらも、裁判所はこれに判断を下したのである。行政の「認定」も本来ならば、この裁判所の判断に類する。審査会という専門集団の知見を参考にして(その意見を聞いて)、認定、棄却という行政主体の判断を下すのである。専門家の意見が分かれたときこそ行政の主体的判断が問われるのであり、そこに行政姿勢が明瞭になる。その行政の判断のための大きな指針こそが昭和四六年の「否定できない場合は認定」の次官通知である。しかし、行政はこの主体的判断を巧妙に逃げた。全員一致制をとり、不一致のときには答申を保留させ、処分をしないというのがこれである。したがつて保留が増加して処分が遅れているのは行政が右の主体的判断をさけて来たことに由来する。水俣病のごとく未解明の部分を含み(もちろん、この未解明の責任も行政は負わねばならないのであるが)、また日々新しい知見が加えられていく病気についていえば、時代と診断者によつて「診断」内容は異なることはある意味では当然である。本来ならば、その時々において行政が「意見が分かれて判断できない」とすることはすべきではない。法のいう「迅速な救済」とは、まさに右に述べたような行政の主体的判断が問われたときに、判断を先に延ばして救済を遅らせてはならないという趣旨で規定されていると考えるべきである。

しかし、行政は全員一致制、不一致のときは答申保留、再検診という方法で判断を先にのばす方法を選択してきている。これは明らかな行政の怠慢であり、専門医集団である審査会の責任ではない。行政の右の怠慢を隠ぺいする方法は巧妙である。全員一致制もそうであるが、更に審査会の判断=行政の判断という図式を絶対に崩さないこと、更に、昭和五二年「後天性水俣病の判断条件」、昭和五三年「新次官通知」により、一定の具体的な基準を設けて(認定すべき症状の組み合わせまで決めているのであるから昭和四六年「通知」と根本的に異なつたものとなつている)、専門家集団である審査会の判断まで拘束してきていることがあげられる。したがつて、審査会の答申は現在では医学的判断の装いはこらされていても、内実は、基準に合致するか否かだけを判断する機関になつており、完全に行政にとり込まれてしまつている。審査会はもはや各専門家が各自の知見に基づいた「診断」を下し、それを集約する場ではなくなつている。

以上のとおり、認定業務においては、どうしてもやむを得ない一部を除いては、保留は原則として許されない。ましてや医学的な見極めをつけることと救済の要否を決定する行政の認定行為は本来別物である。行政は医学的な見極めがついていないという理由で救済を先にのばすべきではない。その意味で第三期審査会、第四期審査会時代の極端な保留の増加は行政の怠慢と断言できる。例えば、本件原告野崎の事例のごとく、小児性水俣病の事例について「医学界の定説が得られていない」という理由で救済をのばすことも許されない。法が「迅速な救済」と規定した意味はここにある。

水俣病の医学的判断の困難性をもつて、早急に認定、棄却の処分をし得ない事由とすべきではない。

次に、②申請者数の激増と検診、審査能力の限界についてであるが、被告らは申請者数の激増につき、特に昭和四八年以降のそれをいうのであるが、前記のととおり昭和三一ないし三四年の水俣病発生当初の頃でも、急性激症型の患者の底辺には様々な形の軽症、不全、慢性型の患者が存在し得ることは中毒学の基本的レベルの問題として是認できるところだつたものであるのに、行政は一人の急性激症の患者の家族、その近隣の者の健康状態に注意を向けず、二〇数年の長きにわたり、患者の積極的発掘を怠つてきたのである。行政は何らの実態調査にも踏み込まず、「昭和三五年に水俣病の発生は終息した。」というドグマに昭和四六年まであえて固執してきたもので、その間に次々と患者が発生してきたのである。このように昭和四八年以降の申請者の急激な増大は、昭和四六年までの右「三五年終息」というドグマによる行政の患者放置に起因するものである。行政が関与しての患者認定制度は昭和三四年暮に始まつているのである。この本人申請に基づく認定制度を維持するとしても、同時に、行政の積極的な患者発掘及び追跡調査とそれが連動されていれば、昭和四六年までにも相当数の患者認定ができているはずである。

更に次なる原因は、熊本水俣病には極めて根深い社会構造上の水俣病に対する偏見、差別が存在すること、そして本人申請主義により患者本人が申し出なければ絶対に患者として確認されることはないという制度のもとで、具体的な申請の方法が行政によつて住民に知らされることがなく、申請の方法がわからないまま申請できない状況が長い間継続したことである(熊本県により認定申請の説明会が初めてもたれたのは昭和四九年一二月である)。前者については行政も認めている。しかし、行政ら何らそのような苦しい困難な状況にある患者に手を差しのべず、これを認定申請に導く施策をとらず、「三五年終息説」と右実態を知りながらの「本人申請門戸解放説」に居すわり何もしなかつた。そのような行政の怠慢のツケが、昭和四八年以降一挙に押し寄せてきたからといつて、これをもつて認定業務遅滞の理由にすることは許されない。

また、被告らは、再申請者の増加が認定業務促進の障害となつていると主張するが、現行の認定基準に合致しない者は棄却され、それきり何らの救済もされない現状及び行政不服審査請求案件が迅速に処理されていない現状では、再申請者は必然的に出てくる現象であり、かつ認定基準に合致しない者の症状をすべて有機水銀とは無関係とすることができず、また棄却者に症状の増悪があるかもしれないことは遅発性水俣病として明らかにされているところからすれば、これらの再申請者の増加を見込んだ認定業務体制がとられるべきは当然であり、これをもつて認定業務促進の障害とすること自体不当である。

次に検診、審査能力の限界についてであるが、まず、救済及び補償法は、知事は審査会の意見を聞いたうえ認定、棄却の処分をすべき旨定めているが、必ずしも現行の検診及び審査方法をとるべきことを定めているのではない。これらは行政の運用に委ねられているのである。したがつて、現行の検診方法が認定業務促進の大きな阻害要因となつているのであれば、申請者数の増加等状況の変化に伴い大胆な変革をなすべきである。例えば、開業医の診断書を審査に使うとか、検診を委託する病院を増やすとかである。もし被告らが当該医師の能力を言うのであれば、被告らが集中検診に際し大量のインターンほか、それまで水俣病患者の検診等に従事したことのない無経験の医師を動員したこととの対比で大きな背理となる。水俣病に無経験の熊大以外の大学、国立病院等の唯の勤務医よりも、常日頃患者に接している地元開業医の方がこと水俣病の診断に関しては数段優れていることは自明である。仮に百歩譲つて現行検診制度を維持するとしても、検診センターにおける常駐医配備により、右促進を図ることが十分可能である。すなわち検診医一人で一日につき、神経内科、精神科は五、六人、耳鼻科、眼科は一二、三人で検診できるということであるから、一人で月に二〇日検診をするとして神経内科、精神科が月に最低一〇〇人、耳鼻科、眼科が月に最低二四〇人は検診できることになり、神経内科、精神科が常駐医二人、耳鼻科、眼科が常駐医一人で少なくとも年二四〇〇人以上の検診ができることは明らかである。わずか常駐医六人の配備で検診の困難という命題はすべて解決できると断言できる。これが国の力をもつてしてもできないはずは絶対にない。

更に、審査能力に関していえば、現在の月一三〇人審査が申請者が激増した昭和四八年から実行できなかつたという理由はない。更に必要があれば、現行のように被告のいう「高度の学識と豊富な経験を有する」審査委員、専門委員一五名をようする審査会の構成を二つに割り、審査会を二つつくることを考えてもよい。審査委員の学識が疑うべきものでないとすれば右によつて「公正」が害されるとも考えられない。更に審査委員になりうべき学識経験者が不足というのであれば、武内忠男氏をはじめとする二次研究班グループが、第三期審査会以来原田正純氏を除いて排除されたままであることと背理となる。行政は、審査委員適格者が少ないということを言いながら、実は一定の研究者グループを故意に審査会から排除してきているのである。二次研究班の中心メンバーのひとり立津政順教授は「患者を診ることのできる教室員を二〇名ほど育てて来ている」と言つている。決して専門家は不足していない。仮に不足だとすると水俣病公式確認以来二六年間専門家の養成を怠つて来た行政の責任である。

ところで被告らは、右検診、審査能力の限界として、主に担当医師確保の困難性をあげるが、前段に述べたとおり水俣病を診断できる医師は養成され、現に熊本に存在するのに、これを検診医にしていないのである。

次に③過去における検診、審査業務の停止であるが、これは、不作為判決の判旨においてすでに決着がついている問題であり、再度これを持ち出すのは、不作為判決の蒸し返しである。すなわち、不作為判決は、この点につき、しかしながら「原告らの行動により被告の認定業務が完全にその機能を失墜した(いわば履行不能になつた)と認定することはできず、またたとえ一定の時期において行政の機能が麻痺するような事態が発生したとしても、そのまま放置することなく早急な解決を画ることは行政の義務であり、そこで問われるのは行政の対応のあり方であることはいうまでもない。本件についてみるに業務の停止から再開に至るまで一年有余にわたり何らの進展をみることなく、推移し、しかもこれを以つてその責任のすべてが原告らにあり、被告に一切その責任はないとする被告の見解は行政の責任を自ら放棄するものであつて、このような被告の主張は失当というほかない。したがつて前記検診及び審査業務の停止をもつて現在の、処理見通しも立たない混迷した状態をやむをえないものとする『特別事情』と認めることはできない。なお被告は第三期審査会の発足が遅れたことについても、検診促進策の検討を待つて審査委員を任命することにした為、やむをえなかつた旨主張するが、これはそもそも第二期審査会の任期満了を控えての被告の遅れに起因するものであつて、その結果をすべて申請者の不利益に帰せしめることはできない。」と判示し、この判断が正当なことは言うまでもないことである。

また、本件原告らの昭和五五年九月からの検診拒否についてであるが、第一に、右検診拒否開始の時点においてすでに知事の本件不法行為が成立していたことは、前述のとおり否定しようもないことであり、第二に、これも前に述べたとおり、検診拒否は、認定業務遅滞の責任を履行しようとしない違法な行政の姿勢と、更に逆に大量棄却による水俣病終息を計ろうとするその認定業務における姿勢に対し、申請者が他にとるべき手段がないところまで追いつめられて、「座して棄却を待つより」と必死の思いを込めて、行政の水俣病に対する救済姿勢の根本的改変を求めて始めたものであり、むしろ行政の責任不履行に由来する申請者らの行動であり、やむにやまれぬ行動なのである。したがつて、これを県知事の不作為違法ないしその故意、怠慢判断の斟酌事由とすることはできない。

次に各原告らの個別事情についてであるが、被告らは証拠を提出し一定の事実主張を行つているが、これが、どのような法律効果の主張に結び着くのかは明らかではない。仮に未処分の正当性をいうのであれば、保留判断の不当と全般的な認定業務遅滞における行政の故意過失はすでに明らかにしたところであり、また、医学的判断の困難、早急な処分の困難という一般的事情を右個別事情にまで敷衍して主張しているだけなら、原告のこれまでの反論でこと足りる。

最後に答申保留についてであるが、右主張については、第一に、保留、再検診が必然的に申請者の長期未処分と結びつくものではないという点である。答申保留とした審査会の審査の後二年も三年も経つて再び審査されるのは、その大半が待ち時間なのであつて、この点は不作為判決にも指摘がある。すなわち、保留により八年も九年も待たされるというのは、むしろ保留されることに問題があるのではなく、待ち時間が長すぎる、つまり認定業務の遅滞の恒常化に原因があるのである。第二に、判断困難の症例については、行政によつて併記答申などの方法をとつたうえでそれに対する主体的救済の姿勢を処分において示すことが法の趣旨に合致するのであつて、二回以上の答申保留は許されるべきではない。第三に、保留増大の原因の一つは、明らかに検診医と審査医とが切り離されているため、判断者において決断がつかず、判断困難として保留されてしまうことにある。つまり現行検診、審査制度の運用にこそ問題があるのである。

以上のとおり、被告らが主張する認定業務遅滞の事由はいずれも正当なものとはいえない。

(4) 次に、④認定業務促進のための被告らの努力についてであるが、前段で述べたとおり、被告らがその努力として主張するところのものは、水俣病患者らが運動によつて切り開いてきた状態を後追いし、あるいはそれに逆行せんとして出てきた施策にすぎない。行政は過去一度たりとも自ら進んで患者に対し主体的な姿勢を示したことはなかつた。右事由をもつて、認定業務遅滞の責任を回避することはできない。

(5) 最後に、⑤認定業務遅滞に対する医療救済策であるが、損害の大小の斟酌事由としてならともかく、知事の不作為の違法、責任の判断とは直接関係しないものである。

3  認定原告らの予備的請求についての再反論

水俣病認定患者は認定によりはじめて水俣病患者になるものではない。それでは論理が逆である。認定とは単なる水俣病患者としての確認である。患者であることが先行する。原告らは法の趣旨に則り、申請後迅速に認定されることを期待して申請しているものである。ところが認定業務の遅滞により長期間認定されないまま、チッソとの補償協定による一時金並びに年金等の給付を受けることができなくされている。知事が認定処分を遅延させた期間中、本来ならばチッソより受け得べき年金を受けられず、その経済的利益を日々喪失している。知事は、この未処分の水俣病患者の損失を十分知つているにもかかわらず、その故意、過失により処分を遅滞している。因果関係としては右で充分である。すなわち知事が、当該患者が認定すべき患者であると知つていたか否かは要件ではない。知事は、一般的に違法に認定を遅延させれば、認定すべき患者が日々右の損害をこうむることを知つておれば要件は充足する。

また、損害については、前記2のとおり、こと水俣病に関しては全く適用されたことはなく、また、これからも適用され、問題となることのない補償法に規定する補償条項に基づく主張であるから、空無の議論として検討の余地はないといわざるを得ない。

以上のとおり、被告らの主張はいずれも正当なものとはいえない。

第三  証拠〈省略〉

理由

一  前提となる事実

原告らは、それぞれ一覧表申請年月日欄記載の各年月日(但し、〈証拠〉によれば原告野崎の申請年月日は昭和四八年六月一一日であることが認められる。)に知事に対して救済法三条一項又は補償法四条二項に基づき水俣病と認定すべき旨の申請をしたこと、知事は右救済法及び補償法に基づき、認定業務に要する相当な期間内に、右申請に対し認定又は棄却の処分をすべき義務を負つているにも拘らず、原告仲村に対し昭和五四年五月二六日、同長浜に対し同年八月一日、同坂本吉高に対し同年四月二七日、同岩内に対し同年五五年五月二日、同野崎に対し同五七年九月二日それぞれ認定の、同松崎に対し同五四年二月二二日、同柳野に対し同年八月一日、同久木田に対し同五五年一月二五日、同福山ツルエ、同福山貞行に対しいずれも同年六月四日、同田上に対し同年九月五日、同川野に対し同五四年二月一日、同坂本輝喜に対し同年八月一日、同川本に対し同五五年一月二五日、同楠本に対し同年九月五日にそれぞれ棄却の各処分を行うまで、何らの処分をせず、その余の原告らについては、本件口頭弁論終結時である昭和五七年九月二九日に至るも何ら認定、棄却の処分をしていないこと、そこで一覧表原告番号1、2、4ないし10、12ないし15の不作為判決原告らは熊本地裁に対し、知事の右不作為が違法である旨の確認を求める訴えを提起した(熊本地裁昭和四九年(行ウ)第六号、同五〇年(行ウ)第六号事件として係属)ところ、同裁判所は昭和五一年一二月一五日知事の右不作為は違法である旨の判決をし、右判決は同月三〇日に確定したことは当事者間に争いがない。

二  不作為判決の既判力

原告らは、不作為判決の既判力を根拠に知事の不作為の違法を主張し、本件の国家賠償請求をするものであるところ、既判力とは確定判決の基準性のことで、これにより後訴の裁判所は同一事項について既存の確定判決の内容と牴触する裁判をし得なくなるが、その範囲は、当該訴訟当事者間の事実審口頭弁論終結時点における権利もしくは権利関係の存否である。

そこで、これを不作為判決についてみると、不作為違法確認訴訟の口頭弁論終結時である昭和五一年七月二一日(当裁判所に顕著な事実)時点において、知事の水俣病認定申請に対し何ら認定、棄却の処分をしないという未処分の状態(不作為)が違法であることを、右訴訟当事者間(被告は処分庁である知事)において確定されたということになる。

ところで、原告らの本訴請求は、右判決の既判力の適用に当り、次の問題点を有している。すなわち、本訴請求は国賠法一条一項によるものであるから、被告は国又は公共団体であつて、知事ではないが、右判決の既判力は国又は公共団体に及ぶか、更に、本訴の原告には、不作為判決の原告以外の者も含まれているが、右既判力はこれらの者に及ぶか、及ばないとしても何らかの意味を有するかどうか、という点、次に、本訴請求が不作為違法確認の訴えの後訴といえるか、すなわち、当裁判所は本訴請求の当否を判断するにつき不作為判決の判断に拘束されるかどうか、という点、更には、本訴請求は、右基準時以降における知事の未処分という不作為状態をも違法として、その間の損害賠償をも求めているが、右既判力は基準時以降の不作為状態にも及ぶか、という点である。そこで、以下これらの点につき検討する。

1判決の既判力は、法に特別の規定のない限り当該訴訟当事者にのみ及ぶもので、行訴法三条五項の「不作為の違法確認の訴え」についても同様であるところ、右訴えの被告は「処分をした行政庁」とされている(行訴法三八条一項、一一条)。しかし、これは法律によつて特に形式的に当事者能力及び適格を与えられたにすぎず、実質上の被告は権利主体たる国又は公共団体であると解するのが相当であるから、不作為違法判決の既判力は国又は公共団体に当然に及ぶというべきである。

ところで、被告らは、知事の行う水俣病認定業務は国の機関委任事務であるから、被告県が国賠法上責任を負うとしても、それは同法三条の費用負担者としての責任以外にはあり得ないので、不作為判決の既判力は被告県に及ばないと主張する。

しかし、被告県は、知事が、国の機関委任事務として行う水俣病認定業務について国賠法三条により国とともに右業務を管理する行政主体というべきである(地方自治法九九条参照)から、不作為判決の既判力は被告県に及ぶものと解するのが相当である。

2判決の既判力は、後訴における裁判所の判断を拘束するが、それは、前訴で判断された事項が後訴において直接の内容として判断される場合に限らず、後訴の請求の先決問題である場合にも及ぶと解するのが相当である。

これを本件についてみるに、知事の不作為の違法は本件国家賠償請求の先決問題ということができるから、右違法の存否を判断するに当つては、当裁判所は不作為判決の違法に関する判断と異なる判断をすることができず、当事者もこれに反する主張はできないということになる。

ところで、被告らは、国賠法一条一項の違法は行訴法三条五項の違法よりも幅が狭いとして、不作為判決の既判力は本訴に及ばないと主張するが、国賠法一条一項の違法と行訴法三条五項の違法とを別異に解すべき理由を見い出し得ず、まして本件国家賠償請求における違法は、原告らの主張からも明らかなように不作為判決の違法と全く重なり合つているということができるから、被告らの右主張は致底採用することはできない。

そうすれば、不作為判決原告らの本件国家賠償請求は、その違法性の判断に関する限り不作為判決の既判力に拘束され、これと異なる判断はできず、被告らもこれと異なる主張はできないということになるから、被告らのこの点に関する主張はそれ自体失当といわざるを得ない。

3不作為の違法確認の訴えは、法令に基づき申請権が認められている者がその権利を行使したのに、行政庁が処分裁決をしなかつた場合に、その処分裁決をしないことが違法である旨の確認を求める訴えであるから、その訴訟物は当該不作為の違法性の存否ということになり、個々の違法又は違法性阻却事由は攻撃防禦方法にすぎない。したがつて、右判決の既判力も不作為の違法性一般につき生ずることになるから、その後、認定又は棄却の処分がされるまでの不作為の状態は、右判決の既判力によつて違法と判断せざるを得ない。すなわち、不作為判決の既判力は基準時以降の不作為状態にも及ぶというべきである。

これを本件についてみると、認定又は棄却の処分を受けた原告らについては処分時まで、その余の原告らについては本件口頭弁論終結時まで、右違法状態が継続したと判断せざるを得ないということになる。

4ところで、原告らは、不作為判決の既判力は不作為判決原告らのみならず、その余の原告らにも及ぶと主張するが、前記説示のとおり右既判力は不作為判決原告らについてのみ及び、その余の原告らについては及ばないといわざるを得ない。

しかしながら、前記争いのない事実によれば、不作為判決原告らを除くその余の原告らのうち、原告西川は昭和四八年六月四日に、同川崎は同年七月二六日に、同大矢は同四九年四月一六日にそれぞれ救済法に基づく水俣病認定申請を、また、同森山は同年九月一四日に、同荒木は同五二年一月七日に、同高木は同五一年三月二日にそれぞれ補償法に基づく水俣病認定申請(昭和四九年八月三一日までが救済法、翌九月一日以降は補償法に基づく申請であるから、以下省略する。)をしたが、いずれも未だに認定、棄却の処分を受けていないこと、また原告坂本輝喜は昭和五〇年一月一〇日に申請したが、同五四年八月一日に棄却の処分を受けるまで、同岩内は同五〇年一二月八日に申請したが、同五五年五月二日に認定の処分を受けるまで、同川本は同五一年三月二日に申請したが、同五五年一月二五日に棄却の処分を受けるまで、同楠本は同五二年五月一四日に申請したが、同五五年九月五日に棄却の処分を受けるまで、同野崎は同四八年六月一一日に申請したが、同五七年九月三日に認定の処分を受けるまで、いずれも何らの処分を受けなかつたことが認められ、これら原告に対する右各未処分の状態は、不作為判決原告らが置かれた未処分の状態と何ら変ることはなく、これを別異に解すべき特段の事情も主張もない。

そうすれば、右その余の原告らは不作為判決の既判力を受けないけれども、その請求にかかる国家賠償の違法性の判断については、不作為判決の存在を無視し、これと異なる判断を加えることはかえつて公平の原則に反するというべきである。むしろ、端的に不作為判決の存在及び右判断によつて違法とされた不作為判決原告らに対する不作為の状態とその余の原告らに対する不作為の状態との間に何ら径庭のないことをもつて、右その余の原告らに対する関係においても、知事の前記不作為を違法であると認めるのが、不作為判決原告らとの均衡上相当であると解せられる。

もつとも、不作為が違法とされるのは、申請から相当の期間を経過したのに処分をしない場合であるから、右その余の原告らにつき、申請後直ちに知事の不作為の違法状態が生じたとするわけにはいかないが、前記争いのない事実から窺い得るとおり不作為判決の口頭弁論終結時において、右判決の原告らのうち最も遅く申請した原告につき申請時からほぼ二年を経過していたことに照らし、右その余の原告らについても、それぞれの申請時から遅くともほぼ二年を経過した時点において、知事の不作為の違法状態が生じ、その後処分がなされた原告らについては処分時まで、その余の原告らについては本件口頭弁論終結時まで、右違法状態が継続したものと認めるのが相当である。

そうだとすれば、右その余の原告らについても、知事の不作為は、被告らのその余の主張につき判断するまでもなく、違法であるというべきである。

三  知事の故意、過失

被告らは、原告らの水俣病認定申請に対する知事の未処分という不作為につき、知事に故意、過失はないと主張するので検討するに、国賠法一条一項にいう「故意」とは、当該公務員が職務を執行するに当り、当該行為によつて客観的に違法とされる事実が発生することを認識しながら、これを行う場合をいうのであるから、これを本件についてみると、不作為の性質上、知事が、不作為判決によつて違法と確認された事実を認識していれば、当然故意があると認めるのが相当である。知事が、原告らの申請に対し一定の期間内に何らの処分をせず、又は未だに何らの処分をしていないことは前記のとおりであり、弁論の全趣旨によれば、知事が右不作為状態を作出し、又は作出していることを認識していることは明らかである以上、知事に故意があるといわざるを得ない。この点に関し、被告らは、早急に認定業務を遂行し得ない事情等種々の事情を述べて知事に故意、過失のないことを強調するが、そのいうところのものは、いずれも不作為の違法性の存否の判断につき考慮され得べき事由であり、国賠法上の故意の内容を前示のように解する以上、本件不作為についての知事の故意の成立に何ら影響を及ぼすものではない。

被告らの知事に故意、過失はないとの主張は採用できない。

四  被告らの責任

被告らは、知事に水俣病認定業務遅延という結果を回避すべき可能性がないから責任がない旨主張するが、そもそも国賠法上におしては、公務員の行為が違法とされ、かつ当該公務員に故意、過失があるとされる以上、国又は公共団体に損害賠償の責任が生じるのであつて、被告らが主張するような事由は、知事の不作為に違法性がないことの理由として考慮される余地はあるかも知れないが(もつとも、本件においては、不作為判決の既判力等により、これらの事由によつてもその違法性の判断を左右することができないこと前示のとおりである。)、違法性の存否の問題とは別個に、被告らの責任をいわば阻却する事由となり得るとの根拠は見出し難いので、これらの事由の存否につき判断するまでもなく、被告らのこの点の主張は理由がない。

そうすれば、被告らは、国賠法一条一項に基づき、知事の本件不作為により原告が蒙つた後記損害を賠償すべき責任があるというべきである。

五  原告らの損害

〈証拠〉を総合すれば、昭和三一年五月、水俣病の発生が正式に確認されて以来、熊大医学部らの努力にも拘らず、その原因は容易に解明されなかつた。このようなこともあつてか、水俣病は永らく奇病、伝染病呼ばわりされ、患者を出した家は、家族ぐるみ、一般住民からはもとより今まで親しくつき合つてきた部落民からもいわゆる村八分的取扱いを受けた。そして、これは水俣地域の居住構成により構成された住民社会の序列(チッソがこの最上層部にいた。)、差別意識とあいまつて、筆舌につくし難い差別としてあらわれた。昭和三四年から同三八年にかけ熊大医学部が、水俣病の原因物質を有機水銀であることを究明し、これを発表したが、これが公認されるに至らなかつたため、この差別は依然として続いた。昭和四三年九月に至り、政府は初めて熊本水俣病をチッソ水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が原因であると断定し、また、水俣病の被害が山間部や市町村の中心部にも広がりをみせはじめ、中間層にも患者が発生しだしたこともあつて、漸次水俣病そのものに対する一般住民の意識に微妙な変化が表われてきたが、人生の岐路ともいうべき結婚、就職についてはいまなお厳然たる差別意識が存在する。このように水俣病そのものに対する偏見、差別意識は漸次薄らいできているが、今度は、「にせ患者」、「金の亡者」という中傷を浴びせることによる形を変えた差別としてあらわれ、今日に至つている。

ところで、この間、熊本水俣病についても、新潟水俣病に対し行つたと同様、汚染地域住民に対する一斉健康診断、その結果に基づく追跡調査の必要性が夙に唱えられてきたのにも拘らず、被告は、かつてこれを新潟水俣病のごとく完全な形で実施したことはなく、現在においても、一方で認定制度の破綻をいつてその必要性を認めながら、他方では認定制度を維持するのあまり、これを実施しようとしていない。

原告らは、いずれも申請時において、疫学的に見れば、すべて(原告宮本も水俣に居住後五年目に当る昭和四〇年に「しびれ感」を訴えるようになつたのであるから、右居住の時期を考慮すれば疫学的条件がないとはいえない。)水銀暴露歴を有し、感覚障害、歩行、言語障害、或いは視野狭窄、難聴等何らかの健康障害をもつていたものである。そして、このため十分稼働できず、中には日常の行動にも事欠く者がおり、一様に経済的困窮に陥り、これがため適切かつ十分な治療を受け得ない状態にあることが認められる。

右事実によれば、原告らが水俣病認定申請をしたにも拘らず長期間処分がなされず、認定も棄却もされないという不安定な状態に置かれることは、それ自体で精神的に著しい焦慮の念にかられるであろうことは容易に認められるところであるのみならず、直ちに経済的困窮につながるうえ、適切かつ十分な治療も受けられないことや、行政が認定制度は破綻しているといいながら何ら抜本的な救済対策を講じないことから、行政に対する不信感、怒りを抱かせることとなるとともに、果して救済されるのかという不安感に苛まされ、そのうえ、水俣病に対するいわれなき差別をも甘受しなければならないということになる、と認めることができ、原告らが、かかる立場に相当期間を越えて置かれれば、多大の精神的苦痛を受けるであろうことは十分推認し得るところである。

被告らは、原告らの右精神的苦痛は未だ法的保護に値しないもの、すなわち、いわゆる受忍限度内にあると主張し、その理由として、早急に認定、棄却処分をし得ない事情の存在及び認定業務促進のため可能な限り努力をしていること並びに早急に認定、棄却処分をし得ないことに対する治療研究事業の実施をいうので、以下検討することとする。

1  医学的判断の困難性

〈証拠〉を総合すれば、熊本県における水俣病の認定に関する処分は、救済法三条一項又は補償法四条二項により認定を受けようとする者の申請に基づき、知事が審査会の意見を聞いてこれを行つているところ、認定申請から処分に至る手続は概ね被告ら主張3の(一)の(2)の①ないし⑤記載のとおりであること、このように、水俣病認定の審査に当つては、事前にかなり複雑かつ広範な医学的検査、検診が行われている。これは、元来水俣病が魚貝類に蓄積された有機水銀を経口摂取することにより起る神経系疾患であり、その発生機序が環境汚染による住民の中毒という特異性から、その判断が困難であるとして要請されるものであるが、現在においては、むしろ申請者に対する診断が別々にならないようにという意味での公正さを確保することに重点が置かれ、このため、検診それに続く審査も被告国の示す水俣病の判断条件(基準)に合致するかどうかを判定することに焦点がしぼられている。ところで近時認定される水俣病患者は、昭和三〇年初め頃にみられた典型的有機水銀中毒症としてのいわゆるハンター・ラッセル症候群を示す者は少なく、その症状は有機水銀中毒症としては非典型的であり、そのうえ加齢現象或いは合併症を有している者があり、また、例えば運動機能の検査所見では異常であるにも拘らず、日常的動作において正常であるなど神経学的な整合性に欠ける事例があり、このため、審査委員の意見が合わないことがままあることが認められ、右事実によれば、申請人が水俣病であるかどうかの判断は医学的に困難であると一応いい得るであろう。

しかしながら、前掲証拠によれば、右医学的判断は水俣病をどのようなものとしてとらえるのか、ということと密接に関連するものであるうえ、そもそも知事の行う水俣病認定に関する処分は、右医学的判断に拘束されるべき性質のものではないことが認められる。このことは、昭和四六年八月七日に環境庁が知事に対し、従来の認定に関する処分は救済法の趣旨に必ずしも副わず、その運用に欠けるところがあつたので、右救済法の趣旨に副つた運用をする旨を指示した「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法について」と題する同日付事務次官通知に如実に現われている。

もつとも、水俣病の認定義務に関し、法が審査制度を採用している(救済法三条一項、二〇条、補償法四条一、二項、四四条、四五条)限り、知事が審査会の答申を最大限尊重しなければならないのはいうまでもないが、答申保留が数回にも及ぶに至つては、知事は、自らの行政的判断に基つき、勇断をもつて認定又は棄却の処分を行うのが救済法の目的に副うものであるというべきである。そして、これができないというのであれば、現行の認定制度を抜本的に検討し直すことが当然要請されるといわざるを得ない。

2  申請者数の激増及び診断、審査能力の限界

(一)  〈証拠〉によれば、申請者数は、別紙水俣病認定申請及び処分状況表記載のとおりであるが、右表によれば、申請者は昭和四六年以降急増し、特に同四八年度は一九〇一人、同五二年度は一三七八人、同五三年度は一〇一七人といずれも一〇〇〇人を超えたこと、右申請者の急増は、昭和四六年八月七日、先に川本輝夫らが起していた知事の認定棄却処分に対する行政不服審査請求に対し、環境庁が右棄却処分を取り消し差し戻す旨の裁決を下すとともに、前記事務次官通知を出したこと、更に昭和四八年三月に熊本地裁においていわゆる第一次水俣病判決が下され、同年七月には水俣病患者東京本社交渉団がチッソとの間に補償協定を締結させたこと、更には昭和五二年七月に環境庁企画調整局環境保健部長名で後天性水俣病の判断条件が示されたこと等により、水俣病認定とその救済の門戸が解放されたかに見えたことによること、ところで、被告らには、かつて水俣病とはいわゆるハンタ・ラッセル症候を呈する典型的激症型をいう、このため水俣病は昭和三一年発生三五年終息という考えがあつたため、激症型、典型例の水俣病患者の発生から当然予測し得べきその周辺における非典型的、軽症な潜在患者を発掘するという努力を怠つてきたことが認められ、右事実によれば、少なくとも、被告らは申請者が右のとおり増加することはある程度予測し得べきであつたといわざるを得ないのである。

また、再申請者数の増加についても、確かに前記状況表によれば、昭和五三年以降再申請者の申請者に占める割合が増加し、特に同五五、五六年度には約六七%にも及んでいるが、法が再申請の途を設けていること、前掲各証拠によれば、昭和五三年以降の棄却件数が認定件数をはるかに上廻つていること、被告らは、右棄却処分については、申請者側が問題があるとして不服を申し立てることを認識していたことが認められ、これ等の事情からすれば、再申請者数の増加も当然予測し得たものというべきである。

(二)〈証拠〉を総合すれば、被告県が昭和四九年七、八月に実施した集中検診に対し、申請者患者らが、右検診は杜撰、でたらめとして、担当検診医や、右検診資料に基づき審査する審査委員に対し抗議したこともあつて、被告らが検診医、審査委員の確保に苦労していること、右検診医、審査委員も他に本務を有しているため、右業務に費やせる日時に自ら限界があること、しかしながら、熊大医学部神経科立津政順教授は昭和四九年九月時点において、水俣病患者を診察することのできる教室員を二〇人ほど育ててきていること、前記集中検診に携つた検診医は、熊大、九州大学、久留米大学、長崎大学、鹿児島大学及び熊本、福岡両県から派遣された内科二九人、眼科一四人、耳鼻咽喉科一七人、小児科一人、精神科一人の計六二人であつたこと、もつともこの中にはインターンがいたこと、ところで、補償法は審査委員会は委員一五名以内で構成すると定めているが、熊本県における審査会は当初から一〇名をもつて構成されてきたこと、現在の審査会(昭和五五年一一月一日から同五七年一〇月三一日まで)は審査委員一〇名と専門委員七名をもつて構成されていること、第三次審査会(昭和四九年一一月一日から同五一年一〇月三一日まで)からは、従来二か月に一回開催されていた審査会を、一か月に一回開催することに改め、更に昭和五二年一二月からは、従来の四〇人審査から一二〇人審査に、同五四年四月からはこれを一三〇人審査の体制にしたことが認められ、右事実によれば、被告らが、検診医が能力の面でも、数の面でも不足していることを理由に検診の確保の困難性をいうことはできないし、審査委員についても、仮に審査委員が数名確保できなし事態が発生しても、専門委員を活用することにより十分審査業務を遂行することができるというべきである。また、審査日数についても、これ以上増すことができないという被告らの主張はにわかに措信し難く、仮に右主張どおりであるのならば、右審査体制を含めた認定業務そのものの抜本的検討をするのが行政の選ぶべき途であるというべきである。

3  過去における検診、審査業務の停止

〈証拠〉を総合すれば、被告県は、昭和四九年七、八月に前記のとおり集中検診を行い、神経内科四三五件、眼科三五六件、耳鼻科四一五件の検診を行うことができたこと、そこで県は、これを続行することにより、その後二年程度で、その当時滞留していた未処分累計二〇〇〇件余の検診、審査を終える見込みをたとたこと、ところが協議会らは右集中検診が杜撰、乱暴であるとして被告県、知事、検診担当者に対し団交或いは文書によつて抗議したため、右検診業務は昭和四九年九月から同五一年三月まで、審査業務は昭和四九年一一月から同五〇年四月まで停止したこと、この間、新たな認定申請もあつたことから検診未了者は昭和四九年八月末で一七〇六人であつたのが検診再開時には二五九五人に、また、審査未了者は二一五二人であつたのが再開時には二八一四人に達したこと、しかしながら右集中検診は協議会らが抗議したように、担当検診医の能力及び検診態度並びに方法において杜撰、乱暴といわれても仕方のないものであつたことが認められ、右事実によれば、右検診、審査業務の停止をすべて原告ら申請者側の責に帰せしめるということはできないうえ、前掲各証拠によれば、不作為判決も指摘しているように、右業務停止により認定業務が完全にその機能を失つたとは認め難く、業務の停止から再開に至るまでの一年有余間右業務を再開することなく推移させたことについては、知事の責任を否定し得ないというべきであろう。

4  検診拒否

〈証拠〉を総合すれば、協議会は、昭和五五年九月一八日以降水俣病認定のため検診を拒否する運動に出、これに同調する原告西川は同年九月一一日から一四日までの間に受けるべき検診を、同川崎ら同五六年一月一四日及び同年七月二八日に受けるべき検診を、同宮本は同年七月一日に受けるべき検診を、同白石は同年六月一五日に受けるべき検診を、同緒方は同年三月一五日、五月二二日、二六日、及び一〇月二七日に受けるべき検診を、同森山は同年六月九、一〇日、一〇月三〇日に受けるべき検診をそれぞれ拒否し、同坂本輝喜は同五三年八月二一日に受けるべき検診を、同大矢は同五五年七月一七日受けるべき検診をそれぞれ受けなかったこと、ところで、知事は、不作為判決の前から水俣病認定業務は破綻し、もはや一県の能力を超えているとして、被告国に対し抜本的対策を要求し続けてきたが、不作為判決後である昭和五一年一二月、現行の水俣病認定業務がなぜ遅延するか、これを促進するためには最小限度どのようにすべきかに関し、次のごとき要望をした。

(一)  認定は被害者の単なる特定にすぎない。

熊本水俣病はすでに加害者が特定され、当事者間に補償協定が成立し、法律に基づく補償給付の請求が皆無である現状では、認定業務の効果の実質は被害者の特定にすぎず、法律が本来予定しているところとその性格を異にしている。

(二)  審査、認定基準が明確でない。特に「わからないもの(検診資料のない者等で判断できない者)」の審査、認定基準が不明確のままである。

したがつて、右基準は、現在における答申保留及び処分保留のような事例についても、明確な判断を可能ならしめるようなものであること、更に右基準に合致するとしても、なお、熊本県の審査会で判断困難とされる事例が考えられるが、それらについては、具体的にどのような方策をとるにとについて、その迅速、公正な処分を行うこととするかを明らかにすること。

(三)  検診のための常駐医を確保するとともに、県外申請者の検診体制を確立すること。

現行のように、大学の教育、研究、治療等の合間に行われる大学の医師等に限られた専門医による検診にはおのずから限界がある。

したがつて、不作為違法状態解消を可能とするに充分な検診のための常駐医(神経内科二人、眼科一人、耳鼻科一人、神経精神科二人)を確保すること。

また、未処分申請者は二六都府県の広域にわたつているから、県外申請者の検診体制を具体的に確立する必要がある。

これに対し、国は、昭和五三年六月に開始した水俣病に関する関係閣僚会議において、一五〇人検診、一二〇人審査体制を打ち出し、これを受けた環境庁は、右「わからない」とされている事例の取扱いについて、同年七月一日前記後天性水俣病の判断条件を示し、同五三年七月三日には次官通知によつて、右判断に当つて留意すべき事項を示した。しかしながら、右判断条件は、国の説明にも拘らず、申請者初め水俣病関係者から昭和四六年八月七日付の次官通知に示された判断条件よりも後退するものであるとの指摘がなされ、現に、右判断条件によつて行なわれた認定業務は、昭和五二年度においてこそ認定一九六人、棄却一〇八人であつたが、同五三年度においては認定一二五人に対し棄却三六五人と逆転し、同五四年度においては認定一一六人に対し棄却六五七人、同五五年度においては実に認定四八人に対し棄却八九〇人に至つたこと、しかし、この間における申請者の水俣病症候が従前のそれと比べ特に著しい変化をきたしているとは認め難いこと、申請者が一度棄却の処分を受ければ、再申請等不服の申立てをする途があるとはいえ、現行制度では何らの救済を受けられなくなること、しかも、一部学者からすれば水俣病像というものが必ずしも明確に把握されていない現状からすれば、水俣病患者は未申請者の中にも多数存在するとの指摘がなされており、したがって、右棄却者の中にも当然水俣病である者が存在すると推測することができること、これに水俣病が明らかに公害であるということからすれば、被告らは、認定制度を維持することはさて措き、申請者、未申請者を含めた汚染地域住民に対する被害の実態を把握し、もし被害があれば、被害者の健康の回復、管理に力を注ぐべきものであるのに、いまだにこれを行おうとしていないことが認められ、右事実によれば、協議会が、検診を受ければ棄却処分につながるとして検診拒否運動に出、前記原告らがこれに同調して検診拒否に入っているとしても、これを一概に責めることはできないというべきである。

5  原告らの個別事由

被告らは、原告らの個々の症候が医学的に判断困難な症状を示し、これが認定業務遅延の一原因となつていると主張する。

しかしながら、原告らに対する認定処分に関する一件書類である〈証拠〉によるも、原告らのうち、宮本が疫学的条件に欠けるうらみがあるという以外に、その症候が水俣病であるかどうかにつき、かれこれ比較して特に判断困難と認めるべき事情は見出し難く。したがつて、原告らの個別的事情は前記医学的判断の困難性一般としてその中に解消されるべき事柄であるとみるのが相当である。

6  答申保留

救済法、補償法は答申保留なる処分を認めていないうえ、水俣病患者が右法により救済されるのは水俣病と認定されることが前提である。したがって、答申保留により水俣病認定業務が遅延すれば、当該申請者は、認定処分を前提にしてではあるが、それだけ法による救済を受けるのが遅くなるのは明白である。

被告らは、審査会での審査が答申の理由が「わからない」や「判断不能」とむしろ水俣病でないと棄却の処分をせざるを得ない場合に答申保留とし、これが患者救済という法の趣旨にかなうと主張するが、証人野村瞭の証言によれば、かかる場合でもその疫学的条件を勘案すれば、水俣病と認定することも可能な場合があることが認められ、そうすれば、右のような場合に棄却処分とせざるを得ないとする被告らの主張自体問題であるが、仮に棄却処分にせざるを得ないというのであれば、申請者としては、棄却処分に対して審査請求、再申請等の途があるのであるから、或いはこの段階において、棄却処分を受ける方をいさぎよしとするかもしれない。被告らがいう答申保留は、知事が審査会の答申どおりに処分する(もつとも認定処分が医学的判断を前提とする以上やむを得ない面もある。)或いは処分せざるを得ないとこうに必然的に生ずる事像であつて、このように認定業務の運用に問題がある以上、これが一種の中間処分であるという被告らの主張は到底採用できない。

7  被告国及び県の努力

被告らは、水俣病認定業務促進のため、種々の委員会を設置する等して、努力していると主張するところ、〈証拠〉によれば、右主張するところの事実、すなわち被告ら主張4の(一)、(二)の各事実を認めることができるが、このうち昭和四九年七、八月に行つた集中検診や同五二年七月一日の水俣病認定の判断条件が前記のとおり問題があるものであつたり、〈証拠〉によつて窺い得るような国立水俣病研究センターは必ずしと十分機能していない等の事情があるが、これをさて措いても、被告らがこのように種々の委員会等を設置し、認定業務の促進を図るのは行政本来(不作為判決の有無に拘らず)の任務というべきである。

8  治療研究事業の実施

〈証拠〉弁論の全趣旨によれば、被告県は国の補助を得て昭和四九年度から治療研究事業を実施したが、その内容は漸次改定され、昭和五七年度においては、被告ら主張5の(二)記載の内容となつていること、原告らは、右事業に基づき別紙治療研究事業に係る医療費等支給実績一覧表記載の各医療費等の支給を受けていることが認められる。しかしながら、右事業が、未処分申請者に対し被告らが現在行つている唯一といつてよい救済策であること、その内容は、水俣病認定申請に係る疾病に関する治療、療養等の費用を被告県が負担するというものであるが、その給付の始期、額においてなお制限があるもので、水俣病患者の救済ということには程遠いものであるといわざるを得ない。

以上によれば、被告らの主張する諸事情が原告らの前示精神的苦痛を慰籍し、したがつて、右苦痛はもはや法的保護に値しないものであるとは到底いい難いところである。これらの諸事情は後記損害額算定に当り加害者側の事情として斟酌すれば足りると解するのが相当である。

そうすれば、原告らの前記精神的苦痛は受忍限度を越えているものとして、法的にも保護すべきものというべきところ、前記二の4で認定したとこうによると、原告らに対する不作為は、各申請時から遅くともほぼ二年を経過した時点以降は違法状態に陥つていると解せざるを得ない。

ところで、被告らは、一部原告ら(救済法に基づく申請者で未だ認定、棄却の処分を受けていない者)は、水俣病の認定業務の促進に関する臨時措置法により昭和五四年二月一四日以降希望すれば、環境庁長官に認定に関する処分を求めることができるのに、これをしていないので、右事情をも損害額算定に当り斟酌すべきものと主張するが、〈証拠〉によれば、右臨時措置法が対象とした認定申請者は少なくとも一二〇〇名は存在したのに、申請した者は僅か約五〇名にしかすぎず、昭和五四年一一月以降は全くいないことが認められ、右事実によれば、右法律は全く空文化したものといわざるを得ず、したがつて、かかる法に基づく申請をしないからといつて、これをも損害額の算定に当り斟酌すべき事由とするのは疑問である。

そこで、以上に認定した当事者双方の諸事情を比較検討し、これに本件記録中に顕れた諸般の事情を勘案して原告らの前記精神的苦痛を金銭に評価すれば、これを、別紙請求認容額一覧表損害金額欄記載の各金額とみるのが相当である。

なお、原告らが本件訴訟の遂行を弁護士建部明に委任したことは当事者間に争いがないところ、弁論の全趣旨によると原告らはそれぞれ請求認容額の一割に相当する金額を報酬として同弁護士に支払う旨約したことが認められ、本件訴訟の難易度、期間等を考慮すれば、右金額(右一覧表弁護士費用欄記載の各金額)も本件不作為の違法と相当因果関係に立つ損害として認めるのが相当である。

六  結び

以上によれば、原告らの本訴請求は、別紙請求認容金額一覧表認容金額欄記載の各金員とこれに対する本件口頭弁論終結の日の翌日である昭和五七年九月三〇日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法八九条、九二条、九三条を適用し、なお仮執行宣言は相当でないからこれを付さないこととし、主文のとおり判決する。

(柴田和夫 最上侃二 山内功)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例